秋田城(秋田県秋田市)

◆2018年5月12日(土)撮影
 秋田城(あきたじょう/あきたのき)は、奈良時代から平安時代にかけて東北地方の日本海側に位置する「出羽国」に置かれた大規模な地方官庁で、政治・軍事・経済の中心でした。
 現在は、城跡の一部が高清水公園として整備され、一部城門が復元されている。また、秋田県護国神社も敷地内に鎮座している。
記録によれば、秋田城の創建は、733(天平5)年に出羽柵が庄内地方から秋田村高清水岡に移転したことにはじまり、その後760(天平宝字)4年頃に秋田城に改称されたものと考えられている。
 律令時代にあっては、出羽国北部の軍事と行政の中心地として、また津軽(青森県)・渡島(北海道)のアイヌとの交流拠点として機能していた。また、秋田城の発掘調査から、大陸東北部にあった渤海国との交易があった痕跡が残されている。このことから文献資料には出てこないものの、奈良時代にたびたび出羽国に渤海使が秋田城を訪れた可能性が高いと考えてられている。
 現地の蝦夷の人々の反乱がいくたびもあり、そのたびに存廃の議論が出されたものの、中央政府である朝廷はこれを退け、秋田城に常駐する国司の派遣を決定した。これが「出羽城介」、後の「秋田城介」はじまりである。
 その後、発掘調査により10世紀後半には秋田城の基本構造と機能は失われたとみられていて、11世紀前半までの遺構が確認されているものの、城内では11世紀以降に該当する主要な遺構が確認されていないことから、この頃には衰退していたと考えられている。
 衰退後も、秋田城の名称は文献上で確認されており、官職である「出羽城介」や「秋田城介」は鎌倉時代以降には、北方を鎮護する官職を意味するようになり、武門において名誉あるものとされ、鎌倉時代には有力御家人である安達氏が代々任命され、室町時代には秋田周辺に勢力をもつ安東氏(のちに末裔が秋田氏)が秋田城介を名乗った。また1575(天正3)年には織田信長の嫡男、織田信忠が秋田城介に補任されたが、信長の全国統一に向けた戦略の一環とみられる。
 1589(天正17)年には、安東氏の後裔である安東実季が秋田城介を称するとともに秋田城介にちなんで秋田氏を名乗った。

(参考サイト:wikipediaなど)

復元された城内東西大路と政庁門
奈良時代には12m、平安時代には9mの道路幅があり、政庁から外郭東門までほぼまっすぐに延びていました。

政庁の変遷がわかる模型が展示されています。発掘調査によって6期の変遷があることがわかっていて、ここでは1〜3期までが展示されています。

政庁第1期復元模型(733年〜770年頃)
秋田城の前身の「出羽柵」創建当時のもの。

政庁第2期復元模型(770年〜800年前後)

政庁第3期復元模型(800年前後〜830年頃)
この時期、政庁域全体を再度整地するなど全面的な改修が行われ、建物数が最大となりました。

政庁門と築地塀(ついじべい)

築地塀は泥土と突き固めて作った塀。

正殿跡
秋田城で最も重要な建物で、出羽国の政務や北方の蝦夷を出迎えたり、時には外国の使節を迎える儀式が行われた場所でした。

政庁は一段高い場所に作られました。

政庁跡に隣接する秋田県護国神社。創建は1869(明治2)年。

現在の社殿は、1990(平成2)年7月9日の即位の礼に反対する中核派のテロにより全焼し、1992(平成4)年9月に再建。

外郭東門
奈良時代のものを復元。

復元された古代水洗厠舎(トイレ)
汚物の溜まった堆積層から、さまざまな植物の種子や寄生虫が発見され、当時の食習慣を知るうえで貴重な資料となっています。
中でも注目すべきは、豚の摂食から感染する寄生虫の発見されていることです。当時日本ではなかった豚食を習慣とする大陸の人々が訪れていた可能性があります。歴史書には現在の大陸島北部にあった渤海国の使者が出羽国を訪れていたという記録があり、渤海使がここを使用していた可能性があります。

古代水洗厠舎内部(1)

古代水洗厠舎内部(2)

古代水洗厠舎内部(3)

外郭東門と古代沼

平安時代に作られた井戸

現在でも水が湧き出ています。

政庁跡の南西部は明治時代に作られた道路によって削られ、失われています。

石碑には1939(昭和14)年9月に国の史跡に指定され、1943(昭和18)年5月に建てられたことが刻まれています

満開の八重桜と外郭東門。

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