阿津賀志山防塁跡(福島県国見町)

◆2023年9月24日(日)撮影
 阿津賀志山防塁は、文治5年(1189)に源頼朝が率いる鎌倉方と奥州藤原氏の軍勢が戦いを繰り広げた「阿津賀志山の合戦」にともなう史跡である。
 防塁は、福島盆地(信達盆地)の平野部から宮城県境の峠に向かって平野が狭まる場所を選び、峠に向かって集約される交通路を遮断することを目的に築かれたと考えられる。その総延長は阿津賀志山(標高289.4m)中腹から阿武隈川の旧氾濫原に至るまでの約3.2qを測る。
 阿津賀志山防塁の構造は、阿津賀志山中腹から阿武隈川旧氾濫原までの間を地形に合わせて築かれた堀と土塁からなる。全体の約60%に当たる阿津賀志山から遠矢崎地区西半部までの約1.3 qと阿武隈川沿いの下二重堀地区を中心とした約600m は、外・中・内の3
本の土塁と、それに挟まれた2 本の外・内堀からなるいわゆる「二重堀構造」を有する。
 その間の遠矢崎地区東半部から大橋地区までの1.3 qは1 本の堀とそれを両側から挟む内・外土塁からなる構造となっている。
 堀と土塁から構成される防塁は、その遺構そのものだけでなく、急斜面や尾根・河岸段丘・谷地・湿地などの周辺の地形を巧に利用しており、一体となった防御性を持つよう計画されたと考えられる。
 阿津賀志山中腹から現在の国道4号付近の山麓までの範囲は、尾根状の地形をいかし直線的に防塁が構築されている。防塁前面の尾根まで続く斜面地と敵方の動向を把握しやすい眺望をいかした構造となる。平野部に入ると防塁は、おおむね滑なめり川(阿武隈川水系)の河岸段丘を利用し、蛇行するように築かれる。滑川とそれに伴う湿地(泥田)および段丘の高低差が防塁とともに防衛機能を高める工夫がなされている。
 一方、複数の土塁と堀を長距離にわたり構築するだけでなく、山中の急斜面に構築された地区や、地盤が凝灰岩質のため岩盤を掘り窪めて堀を造る地区など大規模な動員が想定される状況も明らかになりつつある。
(「史跡 阿津賀志山防塁第T期整備整備基本計画・下二重堀地区計画」(平成30年9月)(福島県国見町)より引用)

地形図
(「史跡 阿津賀志山防塁第T期整備整備基本計画・下二重堀地区計画」(平成30年9月)(福島県国見町)より引用)

阿津賀志山防塁模式図
(「史跡 阿津賀志山防塁第T期整備整備基本計画・下二重堀地区計画」(平成30年9月)(福島県国見町)より引用)
山頂地区
標高289.4mで、遺構は確認できないが、ここからは福島盆地を一望できる。また、車道と駐車場が整備され、自動車で行くことが可能である。

山頂にある展望台

奥州合戦八百年記念碑

現地案内板

展望台からの眺め。福島盆地を一望できます。
二重堀始点地点
この地点より山側は35度の斜度と急峻とない、防塁構築が困難であるため、この地点が防塁の始点と考えられている。

林道上にある案内看板

この下に防塁跡があるようですが、藪が生い茂っていたことと、近くに駐車する場所がありませんでしたので、今回は素通りしました。
国道4号北側地区
遺構は、外土塁が削られ外堀が埋められているものの二重堀構造を良く残す地区で、尾根上に築かれ、前面に平野部からの斜面地を持つ。

現地案内板

北側を撮影。奥に見える電線は東北本線。

南側。国道4号が奥に見えます。
現地案内板によれば、防塁跡は明治時代、旧石母田(いしもだ)村と旧大木戸(おおきど)村の村境に利用されていたそうです。

南側。この先、義経の腰掛松などの奥州合戦ゆかりの場所に続きます。

北側。現地案内板によればこの小道は、古代の大化の改新後の国郡制度施行に合わせて整備された東山道ではないかと推測されています。

一方のこちらは、国道4号側の南側。

現地案内板

国道4号。これより先、防塁跡は無くなります。

北側。ここをまっすぐ進むと先ほどの場所へと続きます。

ちょうど、北側にある東北本線の貨物列車が通り過ぎてきました。
西国見・東国見地区
町道110号線の南北で二重堀構造の防塁が良好な形で遺存している。
付近は私有地となっているので、立入には注意が必要とのこと。

現地案内板

町道を左右に横切る形で防塁跡がありました。

町道北側に残る防塁跡。

一方の南側。右側が空堀跡。

空堀の底まで降りてみました。
遠矢崎地区
この地区は、舌状に張り出した遠矢崎丘陵の外縁段丘に防塁が構築され、後背の丘陵崖と前面の低湿地をいかし防塁が築かれている。さらに、発掘調査によりこの地区が二重堀(堀が2本)から堀が1本に変化することが判明しており、唯一構造の転換地点を押さえることができた地点である。

右側へ曲がると防塁跡へと続きます。

現地案内板

南側。良好な状態で残されている。

北側。防塁は水田となって消失している。
高橋地区
遺構は、滑川の河岸段丘上に立地する、堀が1本構造の防塁であることから、南半での発掘調査では、防塁の堀に重複して中世館跡(高橋館)の堀が確認され、早くから改変が進んでいたと考えられる。

防塁への案内看板。近くに駐車する場所が無いため、ここで下車して徒歩で移動。

中央が防塁跡。ちなみに右側にあるのが中世館跡(高橋館)。

防塁跡が見えてきました。遠くから見た方が構造が良くわかります。

現地案内板

左右に土塁、中央に空堀の構造が見て取れます。
下二重堀地区
下入ノ内地区から続く滑川の河岸段丘上に位置し、防塁の遺存状態は他の地区に比べて良好で、現況では防塁幅も最も広い箇所である。

現地案内板

現地案内板

二重堀が明確に見ることが出来ます。

中尊寺ハス池
藤原泰衡の首桶に納められていた蓮の種が800年の時を経て開花した中尊寺蓮が栽培されています。

近くには駐車場とトイレ併設の休憩所が整備されています。
義経腰掛松

江戸時代の紀行文に多数登場する。義経の腰掛松は、源義経と金売吉次の故事が伝えられ、多くの旅人が義経一行に思いを馳せ、詩を詠んだ。現在の松は2014(平成26)年に枯死した2代目の松の一部を接木して育成した3代目。

現地案内板

現地案内板

こちらは1821(文政4)年に初代の松の一部。

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