五日市館(岩手県八幡平市)

◆2023年4月29日(土)撮影
<位置>
 この館跡は、諸書に里城(さとしろ)とも五日市城(いつかいちじょう)とも記されている中世城館の遺構である。安比川上流の左岸にあり、合流する目名市川と青沢川の間の丘陵先端に占地している。川からの比高は30メートル内外で、安比川が南面崖下を東へ曲流していることから、南方の岩手郡方面や西方の鹿角郡方面に向かっては、旧街道や渡河点を扼する緊要の地となっている。
<遺構と縄張の構造>
 中心となる曲輪を地元では「さとしろ」と呼び、現況でも東西203メートル、南北88メートル、面積は約160アールと大規模である。取り巻く空堀も、東端が上幅26メートル、下幅9メートル、深さ15メートル、傾斜角55度以上の切岸で、南端では上幅31メートル、下幅17メートル、深さ12メートル、傾斜角は平均46度を測る。昭和43年の十勝沖地震によって、南面の堀、土塁、切岸は大きく崩落して現在見られる岩場に変容しているが、往時は堀が曲輪をほぼ全周していたとみられる。この曲輪と堀のみを比較すると、二戸郡域では浄法寺城、一戸城、九戸城などに匹敵する規模・構造である。
 また、「おすだて」と呼ばれる北側の曲輪は、主郭の「さとしろ」に対し副郭となるもので、東西50メートル、南北28メートル、面積7アールの規模となっている。この曲輪の北側にも昭和四十年代まで土塁と堀が残っていたと言われ、それは明治二十九年の地籍図からも確認することが出来る。さらに北西の尾根筋に屏風折りの横堀が伸びているが、これは直線距離で90メートルであり、背後の尾根を横断して回り込まれるのを阻む外構(そとがまえ)の防御施設で、連絡道を堀残しの斜堤によって隠蔽する近代戦の覆道にもにた構えである。
 全体の縄張は、自然地形を取り込みながら、横矢に有利な折と邪(ひずみ)を多用しており、それが今に残る土塁の塁線ととクランク状の堀のラインに認められる。また想定される地山の形状と堀の規模から、この館の工事量は土塊の移動だけで約17万m3となる。延べ人足で8万8千人、仮に400人の人足で七ヶ月以上を要する普請である。また城郭戦を仮想すると、この二つの曲輪の防御ラインは総延長660メートルで配する兵員は最低200名を要することとなる。
 これらの縄張には、鉄砲が普及する戦国末期の築城技術が導入されたと考えられ、近世城郭の築城思想が芽生えつつあった時代の築城プランが見てとれる。
<築城者と時期>
 このような縄張の規模と構造は、広域的な防御網の中での兵員移動と収容および駐屯を目的とした枝城(えだじろ)、あるいは敵勢と対峙する純軍事的な陣城(じんじろ)に相応しい。一村落領主の築城とは考えにくく、数百単位の兵員を動員できる郡主クラスの関与した城館といえる。
 しかし、新規築城であったものか、旧来の小規模城館を拡張あるいは増設し防御を強化したものかは定かでない。『奥々風土記』に見える「五日市左近の居城・五日市城」や『封内郷村誌』の「旧館・五日市左近居住・領二百石」、または『奥南落穂集』の「浄法寺氏家臣・五日市兵庫忠教、同流二百石・五日市左近忠岩
兵庫子五十石」、さらには『御領分仮名附帳』の「古舘・青澤左近・居館」などは、どこまでこの城館と関わるものなのか、詳しい史料は残されていない。
 しかし、安比川中流域に勢力のあった中世・浄法寺氏(浄法寺城主)の関与を覗わせる遺構であり、その家臣と伝わる五日市左近、または青澤左近に相当する地場の勢力が何らかの役割を担ったと考えられる。その年代には、ここに見られる縄張技術が伝播したと想定される戦国期の十六世紀後半、それも三戸南部氏と檜山安東氏の抗争により鹿角地方を中心に軍事的に緊迫した永禄年間(西暦一五五八〜六九)から、豊臣秀吉の奥州仕置きに続く天正十九年(同一五九一)の九戸一揆(九戸の乱)あたりまでと見られる。
岩手城郭研究所
(現地案内板より)

現地案内板

(現地案内板より)

1739(元文4)年の絵図。中央に「古舘」の表記がある。
(現地案内板より)

奥に見える小山が「主郭」で、右に流れているのが安比川。

麓は公園として整備されています。

主郭西麓にある神明社。

神明社からは空堀が確認できます。

神明社のすぐ近くには主郭への道が延びており、木柱が立てられています。赤い鳥居は、主郭にある八幡神社の入口を示している。

右側に空堀が確認できます。

主郭(1)
全体が農作地となっています。

主郭(2)

主郭(3)
主郭西側にある八幡神社。

主郭から降りて、麓の周りを一周することにします。
写真左の小山は西側に残っている土塁の一部で、写真右は主郭。

この後主郭麓を回ります。

右側には空堀らしきものが見えます。

こちらは主郭北側にある副郭と想定されるもの。未整備で登り口はなく自然に帰った小山となっています。

副郭北側。写真右が副郭で、左側は農作地となっていますが、副郭に並行して(写真では手前から奥側へ)土塁があったと想定されています。

主郭東側。小集落があります。ここで右折します。

右手に主郭(写真右側)を見ながら進みます。

主郭東側が見えます。

さらに進むと、安比川にぶつかります。ここで右折します。

左手に安比川、右手に主郭を見ながら進みます。

出発地に戻ってきました。

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