浄法寺城(岩手県二戸市)

◆2023年4月29日(土)撮影
 東に安比川が流れる台地上に築かれた城跡で、八幡館、大館、新城館、西館、北館の5つの郭からなり、あわせて東西350メートル、南北500メートル。現在はほとんどが畑となっているが、堀や城跡はきれいに残っている。
主郭とみられる八幡館の北東隅には八幡宮を祀り、大館、新城館の2郭は八幡館の西側に位置し、北は急な崖で、南に広い堀をめぐらせていたとみられる。さらに八幡館と大館の間の堀には後の鹿角街道が通っており、交通の要衝でもあった。大館と新城館を区画する空堀は現在道路となっており、新城館と大館の間の道路沿いに案内板が建っている。

 築城時期は不明。浄法寺氏の居城で、陸奥国二戸郡浄法寺村に所在した。

 浄法寺氏は、源頼朝の有力家臣で源平合戦や奥州討伐などに功があった有力御家人畠山重忠の末裔を称し、重忠の三男重慶を祖とする。
「南旧秘事記(なんきゅうひじき)」によると、畠山重忠の弟重宗(しげむね)が当地を治めていたが、後継ぎがいなかったため、鎌倉の「浄法寺」という寺(現存せず)で僧をしていた重忠の三男の重慶(しげよし)が家を継ぐこととなり「浄法寺氏」を名乗るようになった。
「奥南旧指録(おうなんきゅうしろく)」によると、鎌倉時代の畠山の乱(1205年)に際して、畠山重忠とその子重保・重秀等は自害し畠山氏は滅亡したが、鎌倉の「浄法寺」という寺で僧となっていた重忠の三男重慶は難を逃れ、奥州に下り還俗し、この地に住み着いたといわれる。

 その後の浄法寺氏の事績については不明だが、14代重恒の代に南部守行の麾下となり、25代重房の代に三戸南部氏の家臣となったといわれる。
1591(天正19)年の九戸政実の乱に際し、南部信直方に浄法寺の名が載っていて(浄法寺修理重安)、乱後には5000石を領し、盛岡城構築のさいにも奉行並5人衆として参加する有力家臣となる。
1592(天正20)年6月、「諸城破却令」の書上には「浄法寺 山城 畠山 修理 持分」とあり破却は免れた。

 しかし、1601(慶長6)年に岩崎一揆において岩崎城攻めに参加したさい、重安の嫡男浄法寺重好の不首尾があったため領地は没収され、重好は分家の松岡家に預けられ浄法寺氏宗家は廃絶した。なお、不首尾の理由については不明で、一説によれば一時休戦中に総大将の南部利直は重好を置き本拠地の三戸に帰ったが、重好はひそかに所領に帰ったという軍律違反を行ったためという。
Wikipediaから一部引用)

浄法寺城全景
安比川対岸から八幡館を撮影

現地案内板(1)

現地案内板(1−1)

現地案内板(1−2)

現地案内板(2)

地形図
岩手県教育委員会発行「岩手県中世城館跡分布調査報告書」(1986年)から一部転載、斜体部分は当方による加筆。
@八幡館

八幡館の入口で、麓にある神明社。

神明社の境内。

八幡館はさらに上にあります。

曲輪が確認できます。

現在は農作地となっています。

八幡館の南側からの眺め。下には安比川が流れています。

同じく八幡館の南側からの眺め。

今度は北側の眺め。下に見えるのは鹿角街道で、奥には大館が見えます。

麓から八幡館東側を眺める。急峻な崖の上に館がある事がわかります。
A鹿角街道
現在の青森県三戸郡三戸町で奥州街道から分岐し、秋田県鹿角市へと至り、浄法寺城では八幡館と大館の間を通る。

庚申塔などの石像群。この道がかつての街道であることを示しています。
B大館

大館への入口。一部が土渡稲荷社の境内となっています。

稲荷社境内

境内を通って、奥に進みます。

現在は草地になっています。訪問時期が4月末とまだ草木が生い茂る時期ではないので、夏はどうなるのかは不明です。

大館東側からの眺め。浄法寺市街地が一望できます。

さらに望遠すると、旧浄法寺町役場が見えます。
C大館と新城館間の空堀

空堀は現在道路として使用されています。
左が大館、右が新城館、奥が西館

反対側を撮影。左が新城館、右が大館、奥が浄法寺市街地。
D西館

現在は草地になっています。

南西方面を撮影。
E新城館

民家と農作地となっています。
F北館

北館への入口

どこまでが範囲なのか不明ですが、他の館より広いようです。

近くで農作業をしていましたので、これ以上近づかず退散しました。
G福蔵寺
西館の南麓にある曹洞宗の寺院。

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