金田一城(岩手県二戸市)

◆2022年4月3日(日)、2023年10月14日(土)撮影
 金田一城は二戸郡金田一村(現 二戸市金田一仲町)に所在した。別名は四戸城。築城年代は不明で、城主は南部氏庶流四戸氏である。
城跡は馬淵川左岸の段丘にあり空堀に仕切られた上館、中館、下館からなり、それぞれ四戸氏、切円氏、金田一氏の居城であったと伝えられ三郭を総称して金田一城といったが詳細は不明である。

 上館は、現在長寿寺の西裏にある台地で東西100メートル×南北250メートルで最も規模が大きく、これを四戸城ともいう。下館は、秋葉神社の境内と推定され、その間に挟まれている畑地が中館と推定される。

 城跡からは中世〜近世の陶磁器類が出土している。

 その後、1591(天正19)年の九戸の乱では、南部氏第26代当主で三戸城主の南部信直方の九戸城攻略の拠点として大光寺左衛門が城代をつとめたと伝えられている。九戸の乱の後、まもなく廃城になったと思われる。

四戸氏
 南部氏の庶流で、奥州南部氏初代南部光行の四男、四戸宗朝(南部)が、二戸郡四戸郷を賜ったことにはじまるという。
現在はその地名は残されていないが、三戸と五戸の中間地である浅水(現在の青森県五戸町)のあたりではないかと推定されている。南部氏22代政康の時(1500年頃)に、三戸南部領南方の守りや、勢力が拡大している九戸氏への押さえとして、金田一城を築城させたとされている。
 四戸宗泰の時代には、九戸政実の叔母を妻に迎え、また九戸政実には妹を嫁がせて九戸氏と密接な同盟関係にありました。1591(天正19)年の九戸の乱の際に、宗泰は弟金次郎の流言により出羽国に出奔して病死したと伝えられています。

四戸城は上館、中館、下館の3つの曲輪からなっている。
南部氏の一族とされる四戸氏の居城であったが、
四戸氏がいつ頃から当地に居住したのかは良く分かっていない。
戦国時代末期、城主四戸宗泰の妹は、九戸城主九戸政実の妻で、
また宗泰の妻は政実の叔母であった。
四戸氏は、二戸地方で絶大な勢力を持っていた九戸氏とは親しい間柄であった。
しかし、天正19年(1591)の九戸の戦い(九戸の乱:九戸城参照)を前に、
四戸宗光(宗泰の嫡子で当時城主)は、弟金次郎の流言のため秋田へ逃れ、
病死した。そのため、 四戸城は九戸方に対する南部信直方の居城となり、
九戸の戦いの後、廃城となった。
(現地案内板)

「国土地理院の電子地形図25000を掲載」
国土地理院発行地形図の引用について
http://www.gsi.go.jp/LAW/2930-meizi.html

城跡の探索のために、麓の長寿寺の駐車場を拝借しました。

上館の麓にある長寿寺。

同じく麓にある八坂神社。

長寿寺から上館への道が分かりませんでしたので、遠回りしてしまいました。

上館にあるべご石。これ以外に目立った遺構は見つかりませんでした。

「四戸城跡」の下に小さくある案内板。もうちょっと大きく、できれば縄張りが分かるような地図も載せてほしいなと思いました。

上館西側の自然の断崖。

上館跡は畑と墓地に使用されています。

上館と中館にある割堀。人工的なもののようで、現在は道路が通されています。
中館は現在金田一児童公園と畑になっています。

中館の南半分は金田一児童公園となっています。
(2023年10月14日(土)撮影)

一方の北半分は畑となっています。
(2023年10月14日(土)撮影)

下館周辺。現在は秋葉神社と墓地となっています。

下館の南側に建つ秋葉神社。
(2023年10月14日(土)撮影)

一方の南側は墓地となっています。
(2023年10月14日(土)撮影)

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