久保田城(秋田県秋田市)

◆2017年月4月9日(日)撮影
 久保田城は秋田20万石佐竹氏の居城である。
佐竹氏は源氏の流れを汲む名門で、全国的に見ても平安時代末期までさかのぼることが出来る古い歴史を有した常陸国(現在の茨城県)の大名であった。しかし、義宣(よしのぶ)の時代、関ヶ原の戦いで徳川家康に味方せず中立を保ったことから、西軍に内通したと疑われ、常陸54万石から秋田へ転封された。ちなみにこの転封は転封先の石高が明示されないという異例なものであった(後に20万5800石に確定)。

 1602(慶長7)年に入部した当初は、前領主であった秋田氏の居城湊城に入城したものの、湊城は平城で防御に向かない上に、54万石規模の家臣団を抱えていたため、秋田氏15万石の城は手狭であったため、これが久保田城築城の理由となった。場所は、南東に約5km程離れた窪田の標高45mの神明山とし、早くも1603(慶長8)年5月に築城が開始され、翌年の8月には義宣が久保田城に入り、従来の湊城は破棄された。しかし、義宣が入城した後も城の建設は続けられ、完成したのは1631(寛永8)年頃と言われている。
 天守閣と石垣のない城として知られているが、転封による財政事情や幕府に対する遠慮などが原因といわれている。
 佐竹氏は、江戸時代、一度も転封もなく、12代にわたってこの地を治めます。

 本丸は1880(明治13)年7月の火災でほぼ全焼し、市街地再建の過程で堀の多くも埋め立てられ、現在、本丸・二の丸一帯は千秋公園となり、三の丸には秋田県民会館や秋田県立脳血管研究センターなどが整備されている。
 藩政時代から残された建物として、御物頭御番所が現存し、本丸新兵具隅櫓(御隅櫓)、本丸表門が再建されている。他に焼失前に移築されたとされる裏門が、楼門から平屋へと改造はされているものの、同市鱗勝院へと移築され、同市休宝寺には、明治4年に払い下げられたとされる書院が現存している。

 1890(明治23)年、城跡を秋田市が佐竹氏から借り受けて公園としたが、1896(明治29)年に秋田県に移管され、造園家・長岡安平の設計により整備された。
1953(昭和28)年に再び秋田市に移管、継続的に整備、管理されてきたが、1984(昭和59)年に、15代佐竹義榮(よしなが)氏の遺志により、秋田市に寄贈されて、名実ともに市民の公園となり現在に至っている。千秋公園の命名者は、秋田県出身の漢学者・狩野良知(かのうりょうち)で、「千秋」の由来が、秋田の秋に長久の意の千を冠し、長い繁栄を祈ったものといわれている。
(参考サイト:wikipedia、現地案内板など)

久保田城跡の碑

かつての外堀は埋め立てられたり道路となっています。現在の千秋公園へ通じる中土橋通りの道路もその一つ。

外堀(大手門の堀)(1)
東側の堀は大手門の堀です。
ちなみに現在の外堀の東端には大手門がありました。
=====以下、現地案内板より=====
久保田城の正門に当たる大手門の跡である。城下町から外堀に架かる上土橋(うわどばし)を渡りかぎの手を左に曲がった所に二層の大手門があったが、明治初期に取り壊された。

外堀(大手門の堀)(2)

外堀(穴門の堀)(1)
西側の堀。

穴門の堀(穴門の堀)(2)

明治初期の久保田城の古写真。
手前に穴門橋、左上に御隅櫓、右上に御出し書院があります。

現在、秋田県民会館などが建てられていますが、藩政時代には重臣屋敷が建てられていました。

旧下中城町
二の丸の北・東・南を取り囲むように三の丸があり、重臣屋敷が置かれた。東部を上中城、南部を下中城、北東部を山ノ手(手形上町)といった。

内堀

松下門跡
現在では千秋公園へと通じる道として整備されているが、藩政時代の正式な登城は、黒門経由であったといいます。

二の丸跡
=====以下、現地案内板より=====
本丸に次ぐ城の要衝地であり、城内に入城する道は、内堀を渡って二の丸に集まった。勘定所・境目方役所・安楽院(祈祷所)・時鐘・金蔵・厩などがおかれ、特に、二の丸広場は多数の家臣が集まる際の集合場所として利用されたほか、能や踊りの見物のために町人に開放されることもあった。

二の丸跡は公園として整備されています。

二の丸にある池。

手前が埋められた外堀で、その先にあるのが宅地化された三の丸。

彌高神社
=====以下、現地案内板より=====
 彌高神社は明治42年(1909)に、国学者平田篤胤、経世家佐藤信淵の両大人を祀る神社として創建され、大正5年(1916)現在地に移築したものである。
 この社殿はもと久保田城内にあった佐竹氏の氏神八幡神社の正八幡社で、文政2年(1819)の建造である。本殿は桁行3間、梁間2間、入母屋造、向拝3間、銅板葺きである。向拝は吹放しとなり、虹梁と手狭を重ねた珍しい手法があり、また縁腰組などの扱いと彫刻類の多用などに、この時代の特徴がよく現れている。
 拝殿は桁行正面5間、背面7間、梁間4間、入母屋造、向拝1間、軒唐破風付、銅板葺で平面計画に独特なものをもっている。
 本殿、拝殿は現在石の間で結ばれ、権現造の形式をとるが、石の間は後年の建造とみられる。
 彌高神社社殿は、秋田藩の造営した数少ない神社建築として貴重なものである。
秋田県教育委員会
秋田市教育委員会

裏門跡

御本丸跡
=====以下、現地案内板=====
久保田城が築かれた神明山(しんめいやま)は、三つの高地からなる標高約40メートルほどの起伏のある台地で、別名三森山(みつもりやま)とも呼ばれていた。
築城は慶長8年(1603)5月から着工され、翌9年8月に完成した。
本丸は、最も高いところを割平や土盛をし、平にして作られた。東西65間(約117メートル)、南北120間(約215メートル)のほぼ長方形を呈し、周囲には高さ4〜6間半(約7.3メートル〜11.8メートル)の土塁を構築している。
本丸の構造物には、表門から入った正面に玄関が置かれ、政庁である政務所が設けられており、池を配した中央部には藩主の住居である本丸御殿があった。また、土塁の上を多聞長屋(たもんながや)と板塀で囲み、要所には隅櫓を置き、、北西隅には兵具庫を兼ねた御隅櫓(おすみやぐら)を設けた。西南隅の土塁上には櫓屋敷と呼ばれた書院風二階建ての「御出し書院(おだししょいん)」が造られた。
出入り口は周囲に表門(一ノ門)、裏門、埋門(うずみもん)、帯曲輪門(おびくるわもん)の4門に、御隅櫓に通じる切戸口があった。

秋田藩12代藩主佐竹義堯(よしたか)公銅像
=====以下、現地案内板より=====
近代秋田を開いた秋田藩最後の12代藩主佐竹義堯公を敬慕する旧家臣が中心になり 戊辰の役後50年にあたる大正4年(1915)公の銅像をここに建立した。
遺憾ながらこの銅像は太平洋戦争のさなか、国の金属回収策のためその姿を消してしまった。
市民有志はこれを惜しみ 昭和28年(1953)、旧銅像の原型として残されていた小型像を奉安してわずかに往時を偲んでいた。
このたび市制百周年(1989)を迎え その記念事業として完全なる姿で往年の義堯公銅像に復元したものである。

平成元年7月12日
秋田市長 高田景次

本丸にある秋田八幡神社
=====以下、秋田県神社庁HPより引用=====
元の秋田国主中祖佐竹義昌朝臣常陸国に居住中、山城国石清水八幡宮を太田城内に勧請し、同宮社殿下の砂石を以て神実とす。
又、同義人朝臣永享3年相模国鶴ヶ岡八幡宮を勧請し『今現存せる尊影は即ち之なりと伝う』
 又山城国稲荷神社及び常陸国鹿島神社の大神を勧請奉斎したのを慶長7年9月同義宣朝臣秋田遷封の際、当地に移転し、累代秋田城内に三社を建立して奉祀崇敬す。
 明治5年右各社を合祀して八幡神社と称す。
 明治11年秋田城跡より秋田市東根小屋町(現中通2丁目)に移転、之より先11月10月23日旧秋田藩内臣民協同醵金して同境内に秋田神社を創建し、佐竹義宣朝臣を祀る。
その後、義尭公、義和公を祀る。
明治32年5月現在地に移転し、同40年12月前記八幡神社と合併して八幡秋田神社と改称した。
 平成17年1月、放火に遭い社殿を焼失し、現在、再建をすすめている。
※訪問時には再建完了

正一位与次郎稲荷神社

表門(復元)
久保田城本丸の正門で、一ノ門とも呼ばれています。

表門再建に使用された木の標本だそうです。
=====以下、現地案内板より=====
樹種 欅
産地 茨城県
樹齢 約250年
柱上の冠木に使用した木の根元である。

長坂から表門を撮影。

門の冠木には佐竹氏の家紋である「扇に月」。

表門

御物頭御番所(1)
18世紀後半(1758(宝暦8)年から1778(安永7)年の間)に建てられたと考えられています。
=====以下、佐竹史料館より引用=====
久保田城内に唯一残っている藩政時代の建物で、二ノ門(長坂門)の開閉の管理と城下の警備、火災の消火等を担当していた物頭(足軽の組頭)の詰所。1988(昭和63)年3月に保存修理を行い、往時の姿を今に伝えています。

御物頭御番所(2)

御物頭御番所(3)

御物頭御番所(4)

御物頭御番所(5)

埋門(うずみもん)跡
=====以下、現地案内板より=====
埋門は本丸の背面(西側)に設けられ、土手を切って出入口とし、その上に多門長屋を渡した一種の隠し門である。門は西曲輪の兵具蔵に通じており、攻撃や防御また緊急避難的な役割を果たしたと考えられている。

多門長屋跡

御隅櫓(復元)
久保田城内には8つの御隅櫓がありましたが、こちらの御隅櫓は本丸の北西に位置していたもので、1989(平成元)年に秋田市制100周年記念事業として復元された。内部は展示コーナーと展望台が設けられています。

御隅櫓

展望台より北の丸方向を撮影。藩政時代には大木屋と籾蔵が置かれた。現在では宅地化が進められ、その痕跡を残していない。

展望台よりの眺め

帯曲輪門跡

御鷹屋御番所跡

裏門跡
=====以下、現地案内板より=====
二の丸から本丸へと続く門の一つで主に夜間の出入りの際に使用した重層門の跡。2度の大火で消失し、そのつど再建され、明治13年の本丸の大火では焼け残ったが、移築・改修されて、鱗勝院(旭北栄町)の山門になったと伝えられている。現在は柱を支えた礎石が残っている。

長坂門跡
=====以下、現地案内板より=====
長坂門は本丸の玄関口である表門(一の門)の前に設けられており、二の門とも呼ばれていた。現在、久保田城跡に唯一残っている御物頭御番所(秋田市指定文化財)がこれらを管理していた。長坂門の名称は、二の丸から本丸へとのぼる長い石段「長坂」にちなんで名付けられたものである。

安楽院・勘定所・境目方役所跡
=====以下、現地案内板より=====
現在の佐竹史料館付近の一画は、二の丸の東南部に当たり、安楽院(あんらくいん)、勘定所(かんじょうじょ)、境目方役所(さかいめがたやくしょ)等が置かれていた。安楽院は、宝龍院を本寺とする、佐竹氏の祈祷寺であった。
勘定所は金銭出納等を境目方役所は国境の調査、図面の作成等を行う役所であった。

不浄門跡
城内で死人が出た場合は、ここから亡骸が運ばれた。

現在は、彌高神社への出入り道として使用されている。

本丸脇と直下を通る千秋トンネル通り。

右が本丸。

北の丸、三の丸は宅地化が進み、痕跡を残していませんが、地番として残されています。

旧上中城町
二の丸の北・東・南を取り囲むように三の丸があり、重臣屋敷が置かれた。東部を上中城、南部を下中城、北東部を山ノ手(手形上町)といった。

左が三の丸で、右が内堀。三の丸は秋田県民会館や秋田市立中央図書館明徳館、平野政吉美術館、秋田県立脳血管研究センターなどが整備されている。秋田県知事公舎は三の丸御殿の跡地に建てられている。

黒門跡
藩政時代は、この黒門が出入り口でした。

黒門跡にある内堀。

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