佐比内館(岩手県紫波町)

◆2018年10月21日(日)撮影
  館跡は館南方の佐比内川(さひないがわ)に中沢川(なかざわがわ)が合流する右岸の山上(熊野神社境内)にあり、尾根続きの北側を除く三方はいずれも急峻な地形を呈している。佐比内川に沿う遠野街道を眼下に見下ろす交通の要衝で、対岸には古館(ふるだて)が残っている。
 築城時期は不明。館主は藤原北家秀郷流、波多野氏の一族である河村秀清(かわむらひできよ)一族といわれている。河村氏の発祥の地は相模国(神奈川県)足柄郡河村郷で、1185(文治元)年の奥州藤原氏討伐に参加し、戦後の論功行賞で、岩手郡、斯波郡の北上川東岸一帯と茂庭(宮城県)、耶麻郡(福島県)の三か所の所領を賜った。
 南北朝時代には南朝側となるが、北朝側の斯波氏に臣従するようなり、1384(至徳(元中)元)年、13代秀基(ひでもと)の代に大巻より移って来たものともいわれる。その後、数代の河村氏の動向は不明であり、系図も不明となっている。天正年間(1573年〜79年)には河村喜助(かわむらきすけ)が館主であったといわれている。
 1537(天文6)年、南部氏の南下が開始され、斯波・稗貫・和賀氏が連合して南部氏に対抗したが、最終的には1588(天正16)年に斯波氏は滅亡し、当主斯波詮直は高水寺城を放棄して大崎氏のもとへ逃亡。佐比内の河村秀政は高水寺から逃げてきた斯波詮直を守って山王海へと落ち延びさせ、秀政自身は戦傷を負い、結局武士を捨てて帰農した。
 こうして、主家斯波氏の滅亡によって河村氏も没落してしまう。
 佐比内館はこの時期に廃城になったものと思われ、跡地には現地案内板によると熊野神社が1605(慶長10)年に移転され現在に至る。
 神社移転に伴い、館跡はあちこち改変されているが、郭や空堀があちこち残されている。
(参考サイト:紫波町観光交流協会武家家伝_河村氏

館全景

頂上の本丸跡にある熊野神社が見えます。

麓のバス停には「舘前」の名称があり、地名として残されてます。
麓にある熊野神社の鳥居

参道はこの先頂上まで続きます。

急な上りとなっています。

急なつづら折り。

5分ほどで神社の建つ本丸跡に到着します。

頂上からは交通の要衝である遠野街道が見えます。

本丸跡にある熊野神社の社殿。

本丸より一段低いところにある曲輪跡。

先ほど登ってきた参道の反対側には比較的傾斜の緩やかな自動車が通ることが出来る道がありました。

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