天童城(山形県天童市)

◆2021年10月30日(土)、10月31日(日)、2022年4月9日(土)撮影
 山形盆地の中東部、独立丘の舞鶴山に築かれ、別名舞鶴城、天童古城。東西1000メートル、南北1200メートルの範囲に及ぶ村山地方最大の山城。また、標高231.8メートルの山頂部に主郭を置き、現在は愛宕神社が建つ。この下には、帯曲輪が巡り、要所には幾重にも段状の曲輪が連なる。城跡の大部分は天童市舞鶴山公園となっている。なお、天童織田氏の城館は区別して天童織田館と呼ばれる。
 南北朝時代、北畠天童丸が居を構えたとされるが、文中年間(1372年~1374年)最上氏の圧力により天童城を去ったという。最上直家の子天童頼直が養子として成生楯を本拠とする里見氏に入っていたが、1375(天授元/永和元)年、天童城に移り天童氏を称した。その後天童氏は一門を領内に分散配置することで村山郡に大きな勢力を築き、最上八楯の領袖として次第に最上氏と対立した。1577(天正5)年最上義光は天童城を攻め、天童氏は最上八楯の援軍を得て最上軍を撤退させるが、1584(天正12)年最上義光がまたも攻めると延沢信景などの寝返りにより落城。廃城となった。
Wikipediaより)

北畠天童丸
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した、南朝方の公卿・武将である北畠顕家(きたばたけ あきいえ)(1318~1338年)の子孫との説があるが詳細は不明。南朝方として周囲の勢力を糾合していたが、全国的な南朝方の退勢の中、北朝方の斯波(最上)兼頼が出羽に入部して圧力が強まり、文中年間(1372年~1374年)に天童城を去り、その後の消息は不明である。一説によれば津軽地方の鰺ヶ沢に落ち延びていったという伝承があり、天童山という地名が残されている。

現地案内板
天童古城(舞鶴山)
舞鶴山は城山ともよばれ、全山が戦国時代の山城である。最初ここを本拠としたのは、十四世紀の南北朝時代に南朝方であった北畠天童丸といわれている。その後天授元年(一三七五)に成生荘地頭の里見頼直あこの山城に移り、天童氏を名のり、十代にわたって村山地域の東部一帯に勢力をのばし、土豪や地侍を従え、盟主的な地位にあった。ところが戦国時代に入り、天正十二年(一五八四)に山形の最上義光に攻められ、これまで天童氏を支えてきた各地の有力な領主が離反し、壮絶な合戦のすえ、落城しその後廃城となっている。
 この山城には、主郭である愛宕山頂を中心に、防御施設である切岸(人工の崖)によって囲まれた曲輪(平坦地)がいたるところに残り、県内では最大規模の戦国期山城である。

城跡全体図(現地案内板より)
入口・愛宕沼

天童公園入口

ふもとに広がる愛宕沼。
中央郭
現在は公園として整備・改変されているが、かつての山城の状態をよく残している。

現在は公園として整備され、桜祭りの時に開催される人間将棋は有名である。

吉田大八像

山腹を垂直状に削って人工の崖とした切岸のようになっている。

天童公園全景。奥に見えるのは将棋塔。

さらに接近してみます。

将棋塔上からの眺め。下に見える四角状のものは人間将棋で使われる将棋盤。

この奥には中央郭北側が続き、展望台が設置されている。


天童古城記念碑

碑によると、天童氏の末裔は現在25代目にあたり、宮城県多賀城市に在住とのこと。

展望台

展望台からは天童市北方を眺めることが出来る。

展望台からの眺め。

大ケヤキ

展望台のあった中央郭北側。こちらも山の斜面を削った切岸となっている。
主郭(愛宕神社・天童神社)

主郭(愛宕神社)出発点。尾根伝いで徒歩おおよそ10分程度でちょっとした登山となります。

現地案内板
名称 愛宕神社 社殿(この上七百メートル先)
愛宕神社の本尊は天童院勝軍地蔵火産巢日神(ほむすびのかみ)にして不動尊と昆沙門を左右に列し、火災消除福徳施興の神で天童支配城主里見賴直は永和三年五月一日に御殿の奥の間に安置す。天正十二年十二月二十四日山形城主最上義光愛宕神社神殿を建立し翌年六月二十四日に天童城主里見家の氏神を遷宮し大祭の儀式を行なう。恒例の祭日は四月二十四日である。延宝六年に向拝拝殿弊殿を創立し向拝の宝珠王玉を鏤める虹梁上の蟇股は桃山の名残を汲む蟇股の菊桐紋は神社の紋章である。
 弊殿に薬師十二神将を祀る。神殿の江戸初期四季の彫刻弊殿に飾る。松に雪竹鷹の丸彫桃山の美を表している。
天童氏文化財指定 昭和四十六年三月三日
天童市教育委員会

現地案内板
愛宕神社
天正十二年十月十日(一五八四)舞鶴山上の天童城は、最上義光(よしあき)によって攻略され、城主天童賴久は仙台領に逃れた。義光は直ちに城址の山頂に愛宕神社を造営し、社領一,三七〇石を寄進し、祭神として勝軍地蔵を安置した。社殿全体(慶長八年再建)市指定文化財。
天童神社
少彦名命と北畠天童丸を祀る。
南北朝時代(十四世紀)南朝方の重臣北畠氏の一族である天童丸はこの地を根據(こんきょ)として活躍したが、後敗れて津軽鰺ヶ沢(あじがさわ)に遁(のが)れた。
天童市
天童ライオンズクラブ

眼下に見えるのは愛宕沼。

こちらは春の風景
(2022年4月9日(土)撮影)

愛宕沼東側には階段状の郭が残されています。現在は桜の木が植えられ、桜の名所となっています。
(2022年4月9日(土)撮影)

こちらの道は愛宕神社のふもとを迂回するように続く天童神社への回り道。天童神社へはこの道がアップダウンが少なく便利。後述しますが、訪問時は愛宕神社から天童神社への下り階段が通行止めとなっているので、この道が唯一の接近方法となる。

バーベキュー会場を抜けて、この先まだまだ登ります。

途中で鉄塔が見えます。ちなみに航空保安施設とのことで、近くにある山形空港を離発着する航空機用に運用されているようです。ここまでくれば主郭へはもう少し。

麓の風景(1)なかなかの絶景です。

麓の風景(2)

ようやく到着しました。

もの見やぐら台跡

現地案内板
天童古城
物見やぐら台跡
中世の城郭の主郭には、城をめぐる櫓が設けられた。敵方の動きや入城者をさぐるために、見通しがよいところに高台を築き、その上に木造の高い櫓を組み監視にあたった。
上山市中山城には石組みの櫓台が残り、大江町左沢楯山城の山頂部でも櫓跡が発掘されている。
おそらく土を盛って高くもりあげたこの場所に櫓が組まれ、城主のいる主郭から周囲の状況を偵察したのであろう。櫓台のまわりには、柵などがめぐっていたものと思われる。
平成十三年十二月一日
天童市教育委員会

現地案内板
天童古城 主郭跡
天童古城は、全山が中世山城で、県内随一の規模をほこる。いたるところに削平された平場やそれをめぐる曲輪(くるわ)をみることができる。
もっとも高所のこのあたりが主郭であった。かつてはこのあたり一帯に建物がたち並び、東側の一段高い場所には櫓(やぐら)があった。曲輪には古井戸が残っている。
周囲には急な崖(切岸(きりぎし))がめぐり、その下方には帯曲輪がとり巻き、さらに段上にいくえにも曲輪が連なる。虎口(こぐち)が愛宕社参道あたりに開き、西側の尾根を登りつめたところにも出入口があったらしい。
天正一二年(一五八四)一〇月、南北朝期以来この地を支配していた天童氏は、最上義光に攻められて落城した。
平成十二年十月一日
天童市教育委員会

現地案内板
愛宕神社の文化財
市指定有形文化財 愛宕神社社殿 昭和四十六年三月三日指定
 天正十二年(一五八四)に、山形城主最上義光(もがみよしあき)が天童城主天童頼澄(てんどうよりずみ)を亡ぼしたのち義光の守り本尊である勝軍地蔵を本尊として祀り、建立したものである。天童氏一統の鎮魂と敵味方の討死した者の供養をかねて、義光の武威を布いたものであろう。
 神殿は天正十三年に炎上し、慶長八年(一六〇三)に再建された。寛文年間に暴風のために破壊し、延宝六年(一六七八)に現存の社殿が建立された。蟇股(かえるまた)や幣殿(へいでん)の松竹梅、鳳凰(ほうおう)などの彫物はこのときに京都において作られたといい桃山文化の名残をとどめている。また、幣殿内の壁板には、鷹、松、椿等、杉戸板には唐獅子図が狩野派の画人によって極彩色で描かれている。

市指定有形文化財 紙本著色神馬図(しほんちゃくしょくじんめず) 昭和三十六年三月三日指定
 義光(よしあき)の孫、最上家信(もがみいえのぶ)(源五郎義俊)が「奉納馬形一疋為諸願成就」と銘を打って絵馬一面を奉納した。荒れ狂う馬を制御する舎人(とねり)の姿が勇ましく描かれている。桃山時代の作。(縦一八八cm・横二一二cm)

市指定有形文化財 石燈籠の竿柱(いしどうろうのさおばしら) 昭和四十六年三月三日指定
 義光の三男氏家光氏(うじいえあきうじ)が慶長十四年(一六〇九)に奉納した。現在は竿柱のみ残る。歴史的資料として貴重である。
昭和六十一年三月一日 天童市教育委員会

拝殿

この先天童神社への下り階段となっていますが、通行禁止の看板があり、先ほどの麓をぐるりと回るう回路が案内されていました。

夕暮れの時間でもありましたので、今回は断念しました。後日聞いたところ、慎重に通行すれば可能とのことでした。
北郭(建勲神社・護国神社・喜太郎稲荷神社)
建勲神社(たけいさおじんじゃ)
当初は天童藩知藩事の織田信敏が東京の私邸内に「織田社」と称して祀っていたが、1869(明治2)年11月8日に神祇官より「健織田社」(たけしおりたのやしろ)という神号が下賜された。この健織田社を1870(明治3)年9月13日に天童市の城山(現 舞鶴山)山頂へ分祀したのが、建勲神社の起源である。

同年(1870年)10月17日、健織田社は太政官の通知により「建勲社」へと改称し、太平洋戦争終結までこの名称は使われた。

1884(明治17)年に現在地に遷座した。これは当初建てられた舞鶴山山頂の社への道のりが急で転落事故が起きるなど不便があったためで、平坦な舞鶴山山腹が選ばれた。

1873(明治6)年5月22日、旧社格において県社に列した。

Wikipediaより)

建勲神社へ続く参道。

階段が続きます。

現地案内板

社殿

御神水

現地案内板

武勲神社の由来
一、鎮座地 天童市城山一,〇四三の五
二、境内地 五,五三一坪
三、御祭神 正一位太政大臣 織田信長命
四、由緒
元和元年(一六一五) 織田信雄(信長二男)
     大和国五万石 松山城主
明和四年(一七六七)八月 織田信浮 出羽高畠に移封
文政十一年(一八二八)五月 織田信美 村山郡天童に移る
明治二年(一八六九)十一月 織田信敏 健織田社(たけしおだのやしろ)の宣命下賜
明治三年(一八七〇)十月 織田信学 太政官に召され神号武勲社と改称仰出
明治三年(一八七〇)十月 東京藩邸に勅使参向 宣命を賜り 支配地天童藩知事織田信敏 舞鶴の城山上頭に神城を卜し神社を創立す
明治六年(一八七三)九月 県社に列す
明治十七年(一八八四)九月 山上より現在地に奉遷 御祭神三百五十年祭斎行
昭和五十七年(一九八二)九月 御祭神四百年祭斎行
令和二年(二〇二〇)十月 神社創建一五〇年祭斎行

現地案内板

石碑

建勲神社から北側にある護国神社へ延びる道。

北側の眺め

現地案内柱

拝殿

現地案内板
吉田大八像(よしだだいはちぞう)
天童市指定有形文化財
平成14年4月1日指定

 天童護国神社の本殿に納められている吉田大八像は、天童市の近代の幕開けを雄弁に物語る歴史資料として重要である。吉田大八は幕末の激動期に天童藩の家老を勤め、時局の打開に奮闘したが、ついには責任者として切腹を命ぜられた。本像はこの吉田大八の姿を表したものであり、像容は長女「みね子」の面相を参考にしているという。威儀を正した服装は、明治元年(1868)天童藩が奥羽鎮撫使先導を命ぜられ、藩主の代理として澤為量(さわためかず)副総督一行を先導した時のものであると伝える。
 総高は132cm、首上52cm、肩幅74cm、裾幅116cm、服部厚30cmである。寄せ木の上を厚く塗り上げ、その上に精密な彩色を施している。明治27年(1894)『山形縣史談』には、すでに挿図として登場している。作者は、尾村安五郎、神保平五郎の両人と伝えられる。明治4年(1871)の『素道軒守隆祠(そどうけんもりたかし)』には「素道軒守隆命(そどうけんもりたかのみこと)御遷座、御木像五日町江戸屋平五郎作」と見える。
 本像は西側に眺望が開ける高台に祀られ、一帯は戊辰戦争の戦場となった場所である。像の膝もとにはこの戦争で命を失った天童織田藩士の遺品が納められている。本像が遺品とともに見守るこの景観は、近代天童の出発点と言うことができる。

平成15年12月1日 天童市教育委員会

現地案内板
護国神社
天童織田藩の家老として、明治維新に官軍(奥羽鎮撫使)の先導代理をつとめたが、情勢一変により織田藩の責を一身に負い自刃した吉田大八守隆公を祀り、明治四年に「素道軒祠」として造営された。祠内には、人形師神保平五郎の作による大八の木像が納められている。
現在、日清、日露、太平洋戦争の戦死者を合祠し、護国神社、また舞鶴宮とも呼ばれている。
平成三年四月 天童市教育委員会

護国神社裏には北郭の遺構が残されています。

山の斜面を整地した曲輪が見えます。

麓まで数段の曲輪が配置されています。

護国神社から西側への眺め。

上の写真を望遠撮影。

北郭の一番端にあるのが小路喜太郎稲荷神社です。
(2022年4月9日(土)撮影)

現地案内板

小路喜太郎稲荷神社
祭神は稲倉魂神であるが、天正年間に天童・最上との戦いの中で、天童氏家臣の狐崎喜太郎が幻術を使い最上勢を悩ませ、さらに敗戦により天童氏が逃げのびるのを助けたとの伝説があり、この喜太郎を祀った社でもある。
平成三年四月
天童市教育委員会

(2022年4月9日(土)撮影)

神社社殿
(2022年4月9日(土)撮影)

現地案内板

小路喜太郎稲荷神社の由来
小路喜太郎稲荷神社は、天童氏の守り神として天童の地域に住む人々の生活の安穏を守る神様として、また、豊穣や商売繁盛の神様として、人々に厚く信仰されてきた。
初代天童城主の天童頼直、二代城主頼泰公の御代に、狐崎喜太郎と名乗る家臣がいて、主君に命じられて上洛し稲荷社の総本社で宇迦之御魂神を祀る京都の伏見稲荷権現に参拝した。神力を感得して御位を受け帰郷した喜太郎は、天童城下に住む諸々の人々の守護神になるように命じられ、喜太郎稲荷神社が創建されたと伝えられる。
「天童の生い立ち」によれば、天童の喜太郎稲荷神社は、もとは、四社があったという。このうち、現在、舞鶴山周辺に残るものは、小路喜太郎稲荷神社、田鶴町地内の喜太郎稲荷神社、仲町の喜太郎稲荷神社の三社で、もう一か所の鎮守地が、山上の城内にあったと推定している。天童氏十代の頼久(頼澄)公が国分氏を頼り、奥州に下ったとき、氏神として多賀城の地に喜太郎稲荷神社を移設し、鎮守の宮居として祀ったといわれ、現在も天童公の守り神として、喜太郎稲荷神社が多賀城市に祀られている。
このような永い歴史と伝統を持つ小路喜太郎稲荷神社を永く後世に伝えていこうと、地域の創意と力を結集し、平成十七年七月に神社本殿を建立したものである。(「天童氏と天童古城」より)
平成十八年九月九日
小路喜太郎稲荷神社
氏子総代


(2022年4月9日(土)撮影)

南方向を撮影。階段状の曲輪が見えます。
(2022年4月9日(土)撮影)

先日訪れた護国神社への小道が続いています。
(2022年4月9日(土)撮影)

神社からの眺め
(2022年4月9日(土)撮影)
東郭
(2022年4月9日(土)撮影)

先日訪問を断念した天童神社ですが、愛宕神社の麓をぐるりと回る道があるとのことでしたので、今回再挑戦です。

途中のっぺらぼうになった黄色の道路標識らしきものがありましたので、昔は自動車での行き来が可能だったのかも知れないです。

途中段々状の風景が見られますが、これが東郭の曲輪群です。

現地案内板

天童古城
曲輪(郭)群
城の中心部を本城(本丸)というが、二の丸・三の丸にあたる区画された平坦地を中世では曲輪という。
山城では斜面を平坦にして、防御に備え、周りは高い壁(切岸(きりぎし))を設けた。これらは本城(主郭)をめぐり細長く帯状にまわるもの、ゆるい斜面に階段状に何段かにわたって配置されるものなどがある。
主郭から北側にむかって設けられた部分の曲輪群は一〇段にわたって連なる。
それぞれの曲輪には、たいてい建物があり、柵などがめぐらされていた。
天童古城は、多くの上下に階段状に連なる曲輪群が特色である。
とくに愛宕沼東の尾根にみられる曲輪群はみごとである。
平成十四年九月一日
天童市教育委員会

古井戸もありました。籠城戦では不可欠であった飲み水の貴重な源となっていました。

現地案内板

天童古城
石組古井戸跡
天童古城には、それぞれの曲輪(郭=防御のために設けられた平坦地)に井戸がそなえられている。水は食料とともに、籠城のためには、不可欠であった。
この井戸は、凝灰岩の切石によって井戸わくを造っているが、下方は礫石(れきせき)積みによって構築されている。井戸わくは後補の可能性もある。おそらく井戸には上屋があり、まわりは平坦地をつくり、井戸郭を構えていたのであろう。
主郭を一段下がった南側の郭にも古井戸がある。
平成十三年十二月一日
天童市教育委員会

内部には墓石群がありました。

曲輪が段々状になっていました。

古い祠がありました。

高所からの眺め。階段状の曲輪が見て取れます。
天童神社
(2022年4月9日(土)撮影)

さらに進むと天童神社の案内板があります。

天童神社
天童神社の祭神は少彦名命(すくなびこなのみこと)である。少彦名命は『古事記』の中に「大己貴命(おおなむちのみこと)」とともに国づくりにはげんだ。」とあり、国士創造神として古くから信仰された神である。また、少彦名命が渡ったという常世(とこよ)の国は、海の彼方の理想郷で永遠不変の寿命と穀霊の国である。舞鶴山上のこの天童神社の創建は明らかではないが、国づくりの創造神として、また、豊穣をもたらす穀霊神として、この地方の人々が信仰し祀ったものであろう。のちに南北朝時代、舞鶴山に城を構えた北畠天童丸(きたばたけてんどうまる)も合祀された。
なお、この地に、天から二人の童子が舞い降りたことから「天童」の地名が起こったとの伝説が残っている。
令和3年2月1日 天童市教育委員会

小道を進みます。

右の階段を進むと先日訪問した愛宕神社となります。

訪問当時、閉鎖が解除されていました。

真っ直ぐと進みます。右へ続く道もありますが、どうやら後述する上北目祖霊社に通じているようです。

天童神社の碑。塗りつぶされているのは、「村社」で、戦前にあった社格の一つ。

最高所にある社殿。

社殿からは階段状となった見事な西郭が見え、これから向かいます。
上北目祖霊社
(2022年4月9日(土)撮影)

現地案内板
前述した主郭入口にあったものと文言は同じです。

名称 愛宕神社 社殿
愛宕神社の本尊は天童院勝軍地蔵火産巢日神(ほむすびのかみ)にして不動尊と昆沙門を左右に列し、火災消除福徳施興の神で天童支配城主里見賴直は永和三年五月一日に御殿の奥の間に安置す。天正十二年十二月二十四日山形城主最上義光愛宕神社神殿を建立し翌年六月二十四日に天童城主里見家の氏神を遷宮し大祭の儀式を行なう。恒例の祭日は四月二十四日である。延宝六年に向拝拝殿弊殿を創立し向拝の宝珠王玉を鏤める虹梁上の蟇股は桃山の名残を汲む蟇股の菊桐紋は神社の紋章である。
 弊殿に薬師十二神将を祀る。神殿の江戸初期四季の彫刻弊殿に飾る。松に雪竹鷹の丸彫桃山の美を表している。
天童氏文化財指定 昭和四十六年三月三日
天童市教育委員会

右側の小道が、前述した天童神社と愛宕神社へと通じています。

麓にある入口です。
西郭
(2022年4月9日(土)撮影)

西郭へは、主郭にある愛宕神社入口に向かって右側の建勲神社への道を進みます。ちなみに左側は愛宕沼へと通じています。

つづら折りの所を曲がらずに左へと向かいます。立入が出来ないように柵があるので、もしかしたら立ち入ったらダメな場所かなとちょっとだけ不安ですが・・・

とりあえず道路を進みます。奥に西郭が見えます。

階段状の見事な郭群が残されていますが、畑のようなものがあるので、もしかしたら民有地なのかも知れません。

広いスペースがあり、自動車で来ることが出来るようですが、所々に民有地と思われる畑が点在しているので、観光目的での侵入が出来るのかどうかは不明です。

見事に残された階段状になった郭群。城マニアとしてはとても興味深い風景ですので、一般用に整備して解放してもいいのかなとも思いますが、おそらく民有地の可能性もあって整備できないのかも知れません。

あまり立入出来る雰囲気ではありませんでしたので、付近を少しだけうろうろしていたら、小さな祠がありました。

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