◆旧国鉄橋場線橋場駅◆

(2009.04.12作成)
(2009.04.28写真追加)
(2011.01.05地形図追加)


(概要と説明)
 橋場駅は当初、盛岡と大曲を結ぶ鉄道として軽便鉄道法により計画された路線上の駅として計画された。盛岡側からは橋場軽便線(はしばけいべんせん)として1922(大正11)年6月25日に盛岡=橋場間が、大曲側からは生保内軽便線(おぼないけいべんせん)として1923年に大曲=生保内(現在の田沢湖)間が開業し、橋場駅は仮の終着駅として誕生した。
ちなみに1922年の軽便鉄道法廃止により、それぞれ橋場線(はしばせん)、生保内線(おぼないせん)と改称されている。

 その後、政府の緊縮財政などにより見送られたが、昭和に入りようやく橋場=生保内間の計画が認められ、工事線生橋線として着工された。この時の計画は、国見温泉方面を経由した国道46号線仙岩峠旧道に近似したルートであった。

 ところが、生保内側からは6kmの志度内の手前数十mまでのレールまで敷いて路盤ができ、後は難所の仙岩峠を越えるだけという段階で日中戦争の激化により中止された。さらに戦争継続上必要であった鉄材の確保のため軍事上重要でない路線を休止して、レールを剥がして活用しようとした。いわゆる不要不急線である。この橋場線も例外ではなく、雫石=橋場間7.7kmが不要不急線と指定されてしまった。レールは取り外されて、貨物輸送で磨り減った山田線のレール交換に転用された。こうして1944(昭和19)年10月1日、橋場駅は「休止」となった。

 戦後、建設中止となった生橋線、そして休止された橋場線を復活させようとの気運が高まり、この橋場駅にも線路が戻ってくるはずだったが、結果は意外な展開となった。

 当時、新線建設には国から補助金が出されていたので、かつての橋場線の復活では補助金がもらえないため、計画を改めて雫石=赤渕間を新線として開通させることにした(1964(昭和39)年9月10日延伸開業)。さらに生橋線のルートも橋場=生保内から、赤渕=生保内に変更。当初の計画では現在の国道46号線に沿ったルートだったが、赤渕からまっすぐ生保内を目指すルートへ変更され、赤渕から橋場の間に線路が敷かれることはなく完全に放棄された。ただ書類上は「廃止」されたわけではなく「休止」扱いとなっている。

 一方新ルートで建設された路線は1966(昭和39)年9月10日の生保内=赤渕間完成により全線開通し、名称も「田沢湖線」となった。





「この地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図(雫石)(大正15)を使用したものである。」
国土地理院発行地形図の引用について
http://www.gsi.go.jp/LAW/2930-meizi.html

◆2009年4月5日(日)撮影

JR田沢湖線赤渕駅
跨線橋から盛岡方面を見る

橋場駅入り口の目印になる木村商店

橋場駅入り口(中央の階段が入口)

入口階段

入口階段を上から望む

ホーム跡(西側方面を望む)(1)

ホーム跡(西側方面を望む)(2)

駅舎跡

転車台(蒸気機関車の方向を変える台)があったと思われるところ

ホーム跡(東側方面(盛岡)を望む)

乗降者口?

ホームから入口階段を望む

駅舎方面を望む

車止め

駅から離れた所にある路線跡


(注)転車台の位置はどうやら図の左側にではなく、右側にあった模様。詳細は「山さ行がねば」(http://yamaiga.com/)を参照。
後日修正します。

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