鳥取城(鳥取県鳥取市)
山下ノ丸

◆2022年10月8日(土)撮影

1993(平成5)年、鳥取城正面入口に建立された吉川経家の銅像。

鳥取城本丸(山上ノ丸)のある久松山(きゅうしょうざん)。ふもとにあるのは江戸時代に整備された城跡群。

麓から本丸(山上ノ丸)跡を望遠撮影。今からあそこに登ります。

現在、麓は久松公園として整備されています。

童謡「ふるさと」記念碑
「ふるさと」を作詞した現在の鳥取市(旧鳥取県邑美郡古市村)出身の歌人、岡野貞一(1878〜1941)の顕彰碑。

鳥取城の水堀(1)

鳥取城の水堀(2)

もう一つの出入り口である擬宝珠橋(2018(平成30)年秋に復元)を渡って、「中ノ御門表門」へ。

2021(令和3)年に復元された鳥取城大手門「中ノ御門表門」。

鳥取城大手門「中ノ御門表門」を城側から撮影。

L字型に曲がった虎口が見えます。

この先、もう一つの門「中ノ御門渡櫓門」が2023(令和5)年に復元工事が始まるそうです。

現地案内板
久松山の麓に広がる各郭群は「山下ノ丸(さんげのまる)」と総称されています。

西坂下御門(中仕切門)。二の丸に向かう途中にある門で1867(慶応3)年に創建。長年にわたり「お城の門」として市民に親しまれていたが、1975(昭和50)年3月に強風のため倒壊した。その後、ほぼ旧態どおりに復元された。

二の丸に向かう道

二の丸登り道の途中で三階櫓の麓から市街地方向の風景を撮影。左下の建物は仁風閣。

「お左近」の手水鉢(おさごのちょうずばち)
近世城郭としての鳥取城の基礎は、池田長吉の時代に築かれました。この時の工事にあたって、池田長幸(長吉の子)夫人の侍女「お左近(さご)」の活躍はめざましいものだったようで、このお左近の手水鉢を石垣に築きこんだところ、難工事であった三階櫓も、無事に完成したという伝説が残されています。
昭和三八年、この「手水鉢」と思われる石材が発見され、三階櫓石垣の修理に際して、もとの位置に復元されました。
平成一八年三月
文化庁
鳥取市教育委員会

写真中央の穴の開いた石だと思われます。

二の丸まであともう少しです。

二の丸。舷座は公園として整備され、一般に開放されています。

現地案内板
二ノ丸には、江戸時代の前期には、藩主が住み、家老などが政治を司る、藩主の御殿がありました。鳥取池田家三代、吉泰の時代に御殿が三ノ丸に移され、享保5年(1720)の石黒大火で全体が焼失しました。三階櫓などは早く復旧されましたが、御殿は幕末の弘化3年(1846)になるまで再建されませんでした。二ノ丸は鳥取城を象徴する場所として市民に親しまれており、昭和32年(1957)に国の史跡に指定された後、最初に石垣の修復工事が行われました。

二の丸の山側にある石切り場。すぐ近くの石垣の材料としてここから切り出されました。

現地案内板。

二の丸からの眺め

三階櫓跡
 城が鳥取藩32万石の政庁となった元和3年(1617)からまもなくして、ここには、三階櫓が建てられました。元禄5年(1692)に山頂の天守が落雷で焼失した後は、この櫓が天守の役割を担いました。享保5年(1720)の大火で焼失しますが、藩の権威を象徴する建物であることから、三階櫓の再建には、藩内にある複数の神社から御神木が特別に提供されました。元文元年(1736)に竣工し、明治12年(1879)に解体撤去されるまで、その威容を誇りました。
 建物は、三層三階の構造で、その規模は、一階約14.5m四方、二階約10.8m四方、三階約7.2m四方の平面で、高さは石垣の上から約17.8mに及びました。城内には、元和元年(1615)に出された幕府の規制によって四階建以上の建物はありませんが、同じ構造の櫓の中では、日本最大級の規模を誇りました。

現地案内板(1)

現地案内板を拡大。かつての三階櫓の古写真。

現地案内板(2)

三階櫓跡(1)

三階櫓跡(2)

三階櫓跡(3)

三階櫓跡からの眺め。中央の建物は仁風館。

次は天球丸へと行きます。巻石垣はブルーシートに覆われていたので見ることはできませんでした。

天球丸(1)

天球丸(2)

天球丸(3)
松の巨木が象徴的です。

天球丸からの眺め(1)

天球丸からの眺め(2)

次は久松山山頂にある山上の丸にある天守跡に向かいます。ここからはちょっとした登山道になっています。当日は雨の予報があって足元が滑る危険性があったんですが、ここまで来たら行けるところまで行こうと、ダメ元と腹をくくって登りました。
登山口はこの中坂稲荷神社の脇にあります。

神社脇を進みます。

この階段が登山口となります。
この続きは山上の丸
仁風閣
仁風閣(じんぷうかく)は、鳥取県鳥取市にある西洋館。1906(明治39)年に鳥取城の扇御殿跡に起工し、翌1907(明治40)年に竣工した。中国地方屈指の明治洋風建築として名高く、国の重要文化財に指定されている。
旧鳥取藩主池田仲博侯爵の別邸という名目であったが、当初より皇族の宿泊を意図して設計・建築されたとされる。完成同年に行われた皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の御宿所として利用され、館名は、これに随行した元帥海軍大将東郷平八郎が命名したもので、同人の筆による額が現存する。
Wikipediaより)

現地案内板

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