江戸城(東京都)


2014年12月9日(火)撮影
 江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。
 この地に最初の根拠地を構えたのが江戸氏で、重継の時代(平安末期から鎌倉時代初期)には現在の江戸城の本丸、二の丸周辺の台地上にあたる部分を居館とした。
 本格的に城郭として整備したのが、扇谷上杉氏の家臣太田道灌で、1457(長禄元)年に麹町台地の東端に平山城を築いた。その後は1524(大永4)年に北条氏の支城となるが、北条氏が豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡後、1590(天正18)年には徳川家康が北条氏の旧領に転封される形で入府。
 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となり、段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。
 明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。
 1960(昭和35)年に国の特別史跡に指定されている。
(一部wikipediaより)
平川(ひらかわ)門
太田道灌(どうかん)(1432〜1486)のころからここに門が作られていて、当時、門の前には上平川村や下平川村などがあり、門の名前の由来になったと言われる。この門は江戸城の裏門、大奥に最も近いので、大奥女中達の出入りする通用門でもあり、お局門とも呼ばれた。またこの門の脇に帯曲輪門と呼ばれる小さな門があり、江戸城からは鬼門にあたるため不浄門とも言われ、城内で罪人や死人が出るとこの門から出された。生きたままこの門を出たのは浅野内匠頭と絵島だけといわれている。

平川門
天神壕
白鳥壕
汐見坂
本丸御殿跡
現在は広場になっています。

このあたりに大奥があったとのこと。
天守台
江戸時代には慶長度(1607年)・元和度(1623年)・寛永度(1638年)の三度築かれているが、その都度焼失し、現在見られるこの天守台は、1657(明暦3)年の焼失後の翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩で築かれたが、四代将軍綱吉の叔父である保科正之の戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきであるとの提言により、その後再建されることはなかった。
なお、1882(明治15)年、当時の気象台が天守台に設けられ各種の観測が行われていました。
北桔橋(きたはねばし)門
名前の通り、江戸時代には跳ね橋が架けられていました。天守や本丸御殿に近い門のため、防御性を高めるためで、同時にこの付近は壕も深くなっています。
乾壕

北桔橋門より撮影。
乾(いぬい)門
江戸城の乾の方角(西北)にある門ため、この名が付けられた。実はこの門は江戸時代には存在しなかったもので、現在の門は坂下門から中に入ったところにあった「西の丸裏門」であったものを、1886(明治21)年に現在地に移築したものである。
現在は、皇居の通用門として年始の新年参賀の際に出口専用の門として使われています。
清水門
1624(寛永元)年助役大名、浅野長晟により建てられた枡形の城門。扉釣具の銘には1658(万治元)年とあるが、これは江戸城の総曲輪の大工事を行ったついでにこの門を修復した年であると考えられています。

渡櫓門

渡櫓門

高麗門

高麗門
田安門
1636(寛永13)年に建てられたと推定され、1963(昭和38)年には解体修理が行われた。北面する高麗門とその西側に直交する渡櫓門からなる枡形門。

高麗門

渡櫓門

高麗門

渡櫓門

渡櫓門

田安門から九段会館を望む。
北の丸公園

北白川宮能久親王(1847〜1895)銅像
日清戦争後の1895(明治28)年、近衛師団長(当時陸軍中将)として、割譲された台湾の征討任務で海を渡りますが、現地で病を得て亡くなりました。征討作戦中の死であったことから、外地で皇族が戦没した初めての例となりました(死後陸軍大将に特進)。

旧近衛師団司令部庁舎
1910(明治43)年建築。1972(昭和47)年に国指定重要文化財となり、1977(昭和52)年に一部を改装して東京国立近代美術館工芸館になった。

吉田茂像
日本の戦後を代表する政治家の一人。

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