八戸城は、現在の八戸市内丸にあった平城城郭である。築城時期は不明であるが、南北朝時代(1330〜1392)に根城南部氏2代政長の三男・信助が根城の支城として築いたのが始まりであるとされる。その後、この一族は中館氏を名乗り、居城は中館と呼ばれた。1627(寛永4)年に根城南部氏が遠野へ移封されると、中館氏もこれに従い、この地は南部(盛岡)藩の直轄地として代官支配の時代となる。ちなみに中館はそのまま取り壊されずに、八戸の支配の拠点として改修されたと思われる。 1664(寛文4)年、南部(盛岡)藩3代重直(利直三男)は、嗣子無く継嗣を定めず病没する。本来改易となるところ、幕府は南部領を分割統治政策として二分して、南部利直の五男重信に盛岡8万石、そして利直の七男南部直房に2万石を与えて分家とし、八戸藩が成立した。直房はかつての根城ではなく、この中館を修築し居城とする。しかし当初八戸藩は城持大名ではなかったので、天守や隅櫓などの建物もなく、建物の規模としては陣屋程度のものでしかなかった。しかし土塁と水堀の巡る本格的な城郭であった。 その後、1838(天保9)年8代藩主南部信真の代に北方沿岸警備の功により、城主格に取り立てられ公式に「八戸城」と称されるようになる。 八戸藩は戊辰戦争の際には、宗家の盛岡藩とともに、奥羽越列藩同盟に参加し敗戦したが、時の9代藩主南部信順が薩摩藩第8代藩主島津重豪の五男であったことから、処罰を逃れた。 明治維新後の1971(明治4)年に廃城となり多くの建物は取り壊され、遺構はほとんどが都市開発により破壊され、現在ではごく一部が残っているに過ぎない。八戸城の本丸跡は三八城神社(みやぎじんじゃ)や三八城公園(みやぎこうえん)となり、八戸藩初代南部直房の銅像が置かれている。 八戸城の現存建物として知られるのは、現在は南部会館の門として利用されている「八戸城角御殿表門」である。別名「旧南部子爵邸表門」ともいい、通称は「古桜門」という。 1792(寛政4)年、御者頭・煙山治部右衛門が居住し、角御殿にふさわしい門と玄関を建てるように命じられ、資金繰りに苦労しながら5年後に完成したという。門には向かい鶴の門と武田菱がついている。立派な門で、八戸市民自慢の門だが1978(昭和53)年に風雨により倒壊している。その後まもなく1980(昭和55)年に修復再建された。 また、もともと根城大手門として使われていたといわれる八戸城の東門が現在は根城跡入口に移築され、ともに貴重な現存建造物となっている。 |
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八戸城案内板。 |
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八戸城絵図(案内板を拡大)。 |
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八戸藩初代南部直房の銅像。 |
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八戸城からの眺め(1) |
八戸城からの眺め(2)すぐ近くにJR八戸線本八戸駅があります。 |
数少ない現存建築物である「八戸城角御殿表門」。 |
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「八戸城角御殿表門」の案内板 |