花垣館(三上館)(岩手県盛岡市)

◆2022年4月3日(日)撮影
 花垣館は築城年代や館主は不明ですが、斯波氏の家臣の居館であったとされています。斯波氏滅亡後、盛岡城築城に当たって南部氏家臣である三上多兵衛を冬期の築城中止時の押さえとして置かれ、三上館とも称された。盛岡城完成後は役割を終えて廃城となったと考えられる。
(現地パンフレットより引用)

主郭全景(1)
訪問当時は参道含め法面の崩落防止工事が行われていました。

主郭全景(2)
館全体は主郭に当たる盛岡天満宮を除き宅地化が進んでいるため、館の範囲など詳細は不明です。

前述のとおり表の参道は工事のため、脇道を進みます。

腰郭。

左が腰郭で、右が参道になります。

ここは平坦地となり、郭と推定されます。

ここには碑が2つあります。

高橋青湖句碑
高橋青湖(本名、高橋初五郎)は、明治22年9月20日に盛岡市で生まれた。盛岡商業学校を経て、東京芝逓信官吏練習所技術科を卒業。盛岡郵便局電話課長、日本電話設備株式会社盛岡営業所長を歴任。昭和55年9月2日没(行年92歳)。大正4年に俳句を作り始め、不来方吟社を創設。臼田亜浪に師事、大正6年工藤芳清らと「自然味」を創刊。以後65年間、通巻640号を没年まで主宰し、たくさんの俳人を育成した。大正10年「石楠」の同人。昭和5年臼田亜浪の跡を継ぎ、岩手日報俳壇の選を12年間担当、戦後、岩手日報発刊「岩手俳句」の監修、岩手県芸術祭俳句大会の選者となり、盛岡俳句研究会外各地句会の指導に努め、現代俳句の普及に貢献した。著作には句集「谿の音」がある。昭和40年、喜寿を祝い、知友門弟によって天満宮境内に句碑が建てられた。
平成23年3月 盛岡市観光課

「岩手颪 ごうごうと 枯野傾けり」と刻まれています。

天満宮の啄木歌碑
石川啄木が青春時代にしばしば訪れたこの天満宮の丘で、昭和8年7月に盛大な碑の除幕式が行われた。建碑活動からその実現までの約3年間は壮絶な経過をたどった。建立にこぎつけた盛岡の啄木会の苦労がしのばれる。
渋民鶴塚と函館立待岬に次いで全国で3番目に建てられた啄木歌碑である。
啄木の直筆から集字拡大して自然石に刻まれた歌
病のごと
  恩郷のこころ湧く日なり
  目にあをぞらの煙りかなしも
は、啄木の名声を高めた歌集「一握の砂」「煙 一」(盛岡時代の回想)の冒頭に据えられている。
<病気のように故郷を恋い慕う心が湧く日である。目にうつる青空の煙が心にしみて悲しいことよ>(岩城之徳著より)という歌意で、都会の空に昇っている煙によって、郷愁の思いに駆られた心を詠んだ歌である。
平成22年10月 盛岡市観光課

腰郭はさらに続きます。

腰郭の一部は天満宮の駐車場となっています。

主郭に鎮座する盛岡天満宮。
盛岡天満宮は、創建時期等は不明ですが、南部氏が三戸に拠点を置いていたころから祀っていたのではないかと想定され、盛岡に拠点を移して盛岡城を築城した当初は四ッ家と寺町の間に社があったと伝えられています。幾度かの遷座を経て、1679(延宝7)年に花垣館と呼ばれていた当地に遷座した。

境内掲示による盛岡天満宮の由緒
盛岡八幡宮の創祀はさだかでないが、盛岡城築城当初は四ッ家と寺町の間に社があったという。南部氏が三戸時代から祀っていたと思われる。
その後、寛永二年(一六二五)に紙町川下町裏大手堀の上、現在の上ノ橋右岸。緑の広場辺に奉遷、次いで寛文六年(一六六六)笹森山(現八幡宮)に再遷、更に延宝七年(一六七九)新八幡宮造営のため、新庄村花垣館と呼ばれし清き処に鎮め今日に至っている。
その管理運営は隣地にあった安楽寺に委託されたが、明治初年に発布された廃仏毀釈・神仏分離令によって廃寺になるまで約二百年間維持されてきたが、廃藩置県後は管理責任者のないままに荒廃しつつあった。
こうした折明治七年、盛岡の豪商糸治第六代当主中村治兵衛氏をはじめ袰岩重兵衛、大志田勇八氏等によって建替え寄進された。造営の棟梁は穀町の太田善右エ門で、周囲の杉木立によく調和し趣のある雅な造りである。
その後中村家累代及び明治三十五年創立された盛岡菅公会会員の定形協力によって維持され、年々祭祀を営み、菅公の遺徳顕彰、神域の整備をはかるなど社会文化活動の拠点として、また「新庄のおでんっあん」と呼び親しまれ現在に至っている。(盛岡菅公会掲示より)

天満宮の石馬(狛犬)
昭和8年7月、同じ天満宮の丘に建てられた思郷歌「病のごと/思郷のこころ湧く日なり/目にあをぞらの煙かなしも」の歌碑除幕式と同時に、それまで地面に置かれていた石馬一対を、啄木の歌を刻んだ台座に据えた。
本殿に向かって右側が口を開いている「阿(あ)形」で、台座に
夏木立中の社の石馬も/汗する日なり/君をゆめみむ(「小天地」第1号)
が刻まれている。
左側の口を閉じた「吽(うん)形」の台座には、
松の風夜晝ひびきぬ/人訪はぬ山の祠の/石馬の耳に(「岩手日報」明治41年11月3日)
が刻まれている。
啄木は小説「葬列」に「旧知己とは、社前に相対してぬかづいている一双の狛犬(こまいぬ)である。(略)克(よ)く見ると実に親しむべき愛嬌のある顔だ。」と記している。
この石馬(狛犬)は、明治36年6月、前年の菅公一千年祭を記念して、近くに住む高畑源次郎が、病気平癒の願いが叶えられたお礼に奉納したと伝えられている。
なお、境内の平安稲荷神社の鳥居付近の「子抱き狐」の台座にも、啄木の歌
苑古き/木の間に立てる石馬の/背をわが肩の月の影かな(「岩手日報」明治38年7月18日)
がある。
従い、盛岡天満宮には、合計4基の啄木歌碑が建っている。
丘の啄木歌碑補修および造園工事と併せて
2010(平成22)年10月吉日 寄進:小林 高
撰文:森 義真

撫牛
天満宮の撫牛は、一九〇二(明治三五)年の菅原道真公没後の一千年祭を記念して、彫刻、奉納されたものです。
一般的な神牛に比べて、柔和な表情を浮かべているのが特徴です。いつの頃からか、神牛を撫でた手で患部をさわると病気が治ると言い伝えられ、「撫牛」と呼ばれるようになりました。

先ほどの石階段の参道は工事のため撤去されています。ここからは平野が一望できます。

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