一戸城(岩手県二戸郡一戸町)

2010年11月14日(日)撮影
 一戸城は一戸町中心部東方に位置し、北から北館・八幡館・神明館の3つの郭に別れ、少し離れた南に常念館があり、その規模は南北700m、東西300m程である。本丸は北館にあったといわれるが、1979(昭和54)年に国道4号線一戸バイパス建設に伴う大規模な発掘調査の結果、中央の神明館が主郭であったと思われる。現在は北館の一部が公園となっているほか、大半が農地や住宅地になったりしている。
 一戸城の城主は、南部氏の有力な分家である一戸氏。一戸南部氏は南部氏の始祖でもある南部光行(1165?〜1236?)の長子行朝を祖とする。行朝は妾腹のために本家を継ぐことが出来ず、野田城を築城して居住していたが、二代目の一戸摂津守義実が2万石を領して建長年間(1249〜1256年)に一戸城に移ったと言われる。その後、一戸南部氏は、三戸南部氏の台頭にあわせて各地に平館・荒木田・千徳・津軽石・堀切・寄木・野田・谷内・中村・金田一などに一族を配し、それなりの勢力を誇っていたと思われる。
 宗家の地位にあった三戸南部氏の南部晴政の死(1582年)の前後から家督相続争いが起こり、結局は南部信直が家督を相続することになったが、これに反発した九戸政実は密かに一戸城主一戸兵部大輔政連を誘って南部信直を暗殺しようと画策するが、政連に拒絶された。そこで九戸政実は、政連の弟である平館城主平館信濃守政包と謀って1581(天正9)年に政連を暗殺し、子の出羽も後に討たれ、一戸南部氏は断絶。九戸政実は腹心の一戸図書助光を一戸城主として送り込んだ。
 その後、三戸南部氏と九戸氏との争いである「九戸政実の乱」が1591(天正19)年に起こると、一戸城は戦いの最前線となるが、資料が乏しいので、最後の戦いについてはよくわかっていない。ただ最終的には豊臣秀吉の討伐軍によって攻め落とされたと考えられている。
 乱終了後は石井信助が城代となったが、1592(文禄元)年、豊臣秀吉の「一国一城令」によって一戸城は廃城となった。
2010年11月14日(日)撮影

一戸城址の標柱。一戸城であることを示す明確なものはこれだけ。

北館には現在公園が整備されている。従来はここが本丸と考えられていた。

北館跡に一戸町の貯水施設があります。

北館から八幡館へ通じる道?

八幡館跡には小さな神社がありました。
2011年5月14日(土)撮影

八幡館(写真左)と神明館(写真右)間の割堀跡。

神明館に残る堀跡。南側を向いて撮影、左が神明館で、奥が国道4号線と北館。馬淵川に面した部分は急峻であるが、ほかの部分はなだらかな地形であるため、かつてはこういった堀が設けられていたと考えられる。現在は国道4号線バイパスと宅地造成によって大部分が消滅している。
ちなみに神明館跡地は個人所有の宅地になっているようでしたので立ち入りを遠慮しました。

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