一方井城(岩手県岩手町)

◆2020年4月26日(日)撮影
 一方井(いっかたい)城は代々この地を領有した一方井氏の居城で別名「輪台城(わだいじょう)とも言う。
 高山から南に伸びる丘陵の突端標高二八〇米に位置し、南西に一方井川が巡り、北側は山地、東側は急斜面に囲まれ、南の一方井盆地を一望できる。天然の地形を生かした要害堅固の山城である。面積は約三万平米であり、三つの郭からなる多郭構造で、それぞれ深い濠で区画されているほか、城の周囲にも二重、三重の空濠が巡らされている。
 三戸に本拠を置いていた南部氏が岩手・紫波方面へ勢力を伸ばす際の前線の拠点として重要な役割を果たしていたが、秀吉の命による天正二〇(一五九二)年の領内破却三十六城の一つとされた。
 盛岡藩の礎を築いた、二六代藩主南部信直公の出生の地として知られ、信直公はここ一方井城で南部氏の一族、田子高信(たっこたかのぶ)と一方井安政の娘、芝山芳公(しばやまほうこう)との間に天文十五(一五四六)年に生まれ、地元の修験者、自光坊(じこうぼう)の下で学び、幼少期を過ごしたとされている。
 城主の一方井氏は、前九年合戦で敗れた安部一族の末裔を称する秋田安東(あんどう)氏の一族がこの地に来て代々領有し、一方井姓を名乗ったとされている。三戸南部氏が南下政策の足がかりとして手を結んだ北岩手郡の諸氏の中でも最有力の豪族であり、南部氏に従った際には七〇〇石を賜り、以後九戸の乱や大坂夏の陣などに出陣している。
(現地案内板より)

全景(現地案内板より)

遠景

現地案内板

盛岡藩の基礎を築いた盛岡藩初代・南部氏26代南部信直の誕生の地として知られています。

一ノ郭(主郭)までの道は南西側を流れる一方井川方面からと、後述する南側からの二つがあります。いずれも民家の脇を通り、分かりづらいです。

現地案内板

一ノ郭(主郭)全景。かなり広いです。

一ノ郭(主郭)高台にある八幡宮神社。

八幡宮神社全景。

一ノ郭(主郭)からはふもとの平野を一望出来ます。中央に見える山は姫神山。

一ノ郭(主郭)東側腰郭。

一ノ郭(主郭)西側(写真左)と二ノ郭(二の丸)(写真右)間にある空堀。

二ノ郭(二の丸)、三ノ郭(三の丸)へ道が整備されて行くことが出来ます。

一ノ郭(主郭)北側(写真左)と二ノ郭(二の丸)(写真右)間にある空堀。

二ノ郭(二の丸)全景。藪と木に覆われています。

三ノ郭(三の丸)全景。二ノ丸同様、藪と木に覆われています。

一ノ郭(主郭)南側から下ってみます。民家や畑の脇を通るので大丈夫かと緊張しました。

民家前に出ましたが、案内板があるので大丈夫のようです。

ふもとのスーパーが入口の目印ですが、案内板がないので少々分かりづらいため、そのまま素通りしそうです。

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