川口城(岩手県岩手町)

◆2020年4月26日(日)撮影
 川口城は、中世から近世にかけてこの地域を治めた領主川口氏の居館である。北上川と古舘川に挟まれた段丘上の要害の地にあたり、平場の広い東郭(大館・主郭)西郭(小館)との間に堀切がある連郭式の平山城である。
 川口氏は、奥州合戦の恩賞として紫波、岩手両郡に領地を与えられた川村秀清の子孫、玉山氏から別れて川口の領主となり、家紋は「丸に違棒(ちがいぼう)」を用いた。応永年間(室町時代)に秀利が三戸の南部守行(もりゆき)に従った際に、領地名の川口姓を名乗るよう命じられた。この頃にはすでに居館として使用されていたと考えられ、南北朝時代には築城されていた可能性が高い。川口秀長は南部信直より四百石を安堵され、その子正家は南部利直に従って大坂の陣に家臣八名を率いて参陣している。明暦三(一六五七)年、正家の子正康が亡くなった際、継嗣利景はまだ二歳で、奉公ができないからと取り潰された。
 正家の頃、元和元(一六一五)年の一国一城令によって川口氏は盛岡城下に移住し、その際川口城は破却された。その建材も転用して明圓寺が造られたと考えられる。明圓寺には、開基正家の位牌が伝わっている。
 正家の娘孝は初代八戸藩主南部直房(なおふさ)夫人霊松院(れいしょういん)である。利景は霊松院に引き取られ、後に八戸藩士となり家老も務めた。以後川口家は明治維新まで藩士として命脈を保った。この城は八戸藩主家のゆかりの地でもある。
(現地案内板より)

現地案内板

主郭である東郭はかつての国道4号線に分断されています。

東郭北側にある堀の跡?

東郭

東郭の一部は旧国道4号線に分断され、工場敷地となっています。

南側にある古館川で、写真右側が川口城で、急峻な崖になっているのが分かります。

東郭と西郭との間の堀切。

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