北目城(宮城県仙台市)

◆2020年10月4日(日)撮影
 北目城跡は、仙台市街の南東部、太白区郡山字北目宅地から仙台バイパスをはさんで郡山四丁目にかけて、広瀬川の自然堤防の上に立地する室町時代から江戸時代初期にかけての平城跡とされている。 現在、北目城跡周辺は都市化の影響で古来の姿は完全に失われているが、昭和20年代頃までは、東西方向の自然堤防上にブロック風に屋敷林で囲まれた列状の集村形態が看取され、遺跡西側には土塁や堀などの地形を利用した田畑や条里形の土地割も見られた。標高は9〜 12m前後で、地形的にはほぼ平坦面であるがやや南東側へ緩く傾斜する。 江戸時代、廷宝年間(1670年代)に記された史料「仙台領古城書上」によると、北目城は16世紀後半までは栗野氏の居城として機能し、その後、伊達政宗が慶長5年(1600)、関ケ原の戦の時から仙台城の完成まで入城したとされる。
 城の規模は、記載内容から東西四十六間(約370m)、南北五十六間(約280m)と、政宗が晩年に築いた「仙台屋敷」(若林城)に匹敵する規模で、四方に幅8間(約15m)の堀があったと記され、現在でも「館ノ内」、「出丸」、 「矢口」、「矢来」など城館に関わるような字名が残っている。
 これまで道路建設や個人住宅建築工事などに伴い6次の調査が実施されている。
(仙台市教育委員会発行「仙台市文化財調査報告書第197号 北目城跡発掘調査報告書」(1995)より)

現地案内板

城跡地図
(隣接する郡山官衙遺跡案内板より)

城跡は宅地化によって痕跡は完全に残されていない上に東西南北に道路が通り敷地が分断されている。奥に見えているのが鹿の又交差点。

どうやら案内板がある辺り(北西側)が主郭と思われます。

城跡西側
道路を境界に左側が城跡。宅地化される昭和20年代までは土塁や堀が残されていたが、現在その痕跡は残されていない。

城跡南側付近。南西側は農地、南東側は住宅地となっています。その一角に念仏供養塔があり、天保と文化の刻印が確認でき、江戸時代後期のものとみられます。

城跡北東側
写真右側が城跡で、段差が見られます。どうやら自然のもののようで、防御施設として利用されたのかもしれません。そうだとすれば、現存する城の唯一の遺構と言えます。

城跡北側
道路を境界に写真左側が城跡。こちらも宅地化が進んで城跡の痕跡はありません。

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