小軽米城(岩手県軽米町)

◆2018年3月31日(土)、4月28日(土)撮影
 小軽米城(こがるまいじょう)は、岩手県九戸郡軽米町小軽米に所在した日本の城。

 古軽米とも記する。小軽米から円子方面に通じる雪屋川沿いの坂道を上り、その道沿い途中から左に少し入ったところの平地(現・農地)に在る「古軽米城(別名「古舘・クズ舘」)」の眼下を流れる「雪屋川」の対岸の東の山(小軽米中学校の背後の山)の標高233mの地点に位置する。 全周に濠・空堀をめぐらす単郭の山城、東西120m、南北150mの規模。短冊状の平場が階段状にある。 さらに、その奥は小山になっていて、頂点には小さい社が在る。祀られているのは「八幡宮」。

 築城時期は不明。陸奥国糠部郡小軽米村に所在し、城主は九戸氏の庶流小軽米氏で、天正19(1591)年九戸政実の乱では、雪谷川や瀬月内川流域の諸士の多くは九戸氏方に加わったが、小軽米氏は南部信直方となり、九戸方の本拠を背後から牽制するうえで、小軽米氏と当城は重要な役割を担うこととなった。 しかし、当地は広大な九戸領の一所領に過ぎず、小軽米氏単騎での行動は実質不可能と思われる。加えて「九戸の乱」の戦時の折は「九戸方の諸将に囲まれて身動き出来ないままに終わる・・・」とも言われている。

 小軽米氏が小軽米村一円を与えられたのは、九戸政実の乱後で、同氏の故地であったことによるといわれる(「参考諸家系図」) 。しかし、小軽米氏は「九戸の乱」以前より、九戸政実の家臣団「九戸党」の一員として語られており「九戸の乱」以後の南部家側の文献は信憑性に欠けるものである。さらに小軽米氏は九戸の乱後、野辺地城城代となり、小軽米左衛門の息子の代の名が最後に残っている。

 1592(天正20)年の「諸城破却書上」には「古軽米 山城 破 小軽米左衛門佐 持分」とあり、破却されたと見られる。

(参考サイト:wikipediaなど)

城の麓にある軽米町立小軽米中学校ですが、2014年3月で廃校となりました。

小軽米中学校の裏手の高台に城跡があります。

本丸麓には神社と祠があります。

本丸跡に整備された公園へ続く道路。

この祠の由来などは不明です。

農地になった曲輪跡と思われます。

さらに本丸跡へ進みます。一応道がありますが、途中から舗装どころか砂利も敷かれていない土むき出しの道で、雨が降るとぬかるんでしまう危険性がありますので、自動車での走行はオススメは出来ません。

右手の坂道を進むと本丸に到着です。

本丸跡は公園として整備されています。

公園の一段高いところに「八幡宮」を祀る祠があります。

頂上にある八幡宮の祠。

裏手は急峻な崖になっていて、人為的に作られた空堀と思われます。

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