郡山遺跡は飛鳥時代から奈良時代(7世紀中頃〜8世紀初め)にかけての官衙(役所)跡で、はじめに居住域が形成された後に、I期官衙が造られ、その後II期官衙へと造り替えられています。 (官衙の性格) 郡山遺跡は当時の律令国家の支配に従わない蝦夷との領域に接する最前線に位置しており、7世紀中頃に造られたI期官衙は、日本海側に設置された渟足柵(ぬたりのき)や磐舟柵(いわふねのき)に対応する太平洋側における蝦夷支配の拠点となる城柵と考えられます。 7世紀末に造られたII期官衙は、I期官衙を壊して造られており、規模の大きさや正方形の形状、造営方位、施設の構造・配置、さらに営まれた年代からみてのちに造られる多賀城以前の陸奥国府と考えられます。II期官衙は造営方位や外郭形状など、多くの点においてI期官衙とは異なっており、そこには当時の宮都である藤原京などとの類似といった関連性が表れています。このことから、当時の律令国家がこの地域の支配を国家的政策としていかに重要視していたのかが分かります。 (官衙の立地) 郡山官衙と後の国府である多賀城の立地については、それぞれが担った支配領域の違いが表れています。郡山II期官衙は、宮城県北部や山形県内陸部の最上・置賜地域までを受け持つ国府として選地されたと考えられます。これに対して多賀城は、同地域が712(和銅5)年に成立した出羽国に移管され、陸奥国の領域が太平洋側のみとなった後の国府であり、内陸の大崎地方の支配体制も含め、仙台平野北端で海路にも近い場所が選地されたと考えられます。また720(養老4)年には陸奥国の蝦夷が反乱しており、陸奥国北方への支配を強める必要があったことも、国府が郡山遺跡から多賀城へと移った原因の一つと考えられます。 (I期官衙) I期官衙は、真北より東に30〜40度振れた方向で造られ、中枢部は一本柱列と板塀により区画されています。この周辺には総柱建物の倉庫群や掘立柱建物と堅穴住居が併存する雑舎群、堅穴住居群による区画に分かれています。遺構からは、東北地方ではまれな畿内産の土師器(はじき)が出土していることから、当時の朝廷と関係のある高級官人が派遣される国家的施設であったと考えられます。 (II期官衙) II期官衙は、一辺が約533m四方の外溝を外側に巡らせ、内側には約428m四方(方四町)の大溝と塀となる材木列が巡り官衙域を取り囲んでいます。材木列の南西隅と西辺には櫓状の建物が設置されていました。官衙の中央部には政庁を形成する四面廂(しめんひさし)付建物の正殿があります。また周辺には石敷の広場や正方形の石組池などが配置され、石組池は陸奥国に居住する蝦夷に対する服属儀礼などに使用されたと考えられています。II期官衙の南には陸奥国で最初の本格的な寺院(郡山廃寺)が併設され、金堂、講堂、僧房、塔などによる伽藍が形成されていたと考えられます。 (現地案内板より) |
現地案内板 |
城跡地図 |
目立った遺構は無く、各所に当時の発掘結果などを記した掲示板や石碑が建てられています。 |
南接する郡山廃寺の敷地の一部は、現在の市立郡山中学校となっています。 |