松代城(長野県長野市)

◆2006年9月16日(土)、2010年6月26日(土)撮影
正確な築城時期は不明だが、1560(永禄3)年、甲斐の戦国大名である武田信玄が、越後の上杉謙信の侵攻に備えるため家臣の山本勘助に命じてこの地に海津城として築いたのが最初と言われる。信玄は武田二十四将の一人高坂弾正昌信を城主として、武田氏と上杉氏との間で行われた川中島の戦いにおいては合戦の舞台となるなど、北信濃の要として重要な役割を担った。
武田氏滅亡後、織田家家臣の森長可の居城となるが、まもなく本能寺の変が起こって織田信長が自刃すると、森長可はこの地を放棄して退却し、この城は無人のまま捨て置かれた。その後は、空白地となったこの地を侵攻した上杉氏の支配となったが、1598(慶長3)年、上杉景勝が会津に転封の後は、豊臣秀吉の蔵入地(直轄地)となり、城主には田丸直昌が任じられた。
その後は、森氏、松平氏、酒井氏とめまぐるしく代わり、1622(元和8)年、信濃上田より転封になった真田信之が入城し、以後、松代藩10万石の藩庁として明治維新まで真田氏の居城となった。ちなみにこの城は、「海津城」、「待城」、「松城」と名前が変わり、「松代城」との名称になったのは1711(正徳元)年に幕府の命令によるものである。
1872(明治5)年の廃城、翌年の放火による全焼などによって、建物が打ち壊され、堀は埋め立てられたために、城としての景観を失い、わずかに石垣が残るのみでしたが、1981(昭和56)年に、現存する城郭建築である新御殿(真田邸)とと もに国の史跡に指定されました。1995(平成7)年より長野市は環境整備工事を行って発掘・文献調査をもとに、櫓門・木橋・石垣・土塁・堀などの修理・復元し、2004(平成16)年4月より、江戸時代の姿に限りなく近い状態で再現され、一般公開されている。
2006年9月16日(土)撮影
旧松代藩の居城、松代城址。これは復元された太鼓門。

2010年6月26日(土)撮影

太鼓門と前橋

太鼓門

本丸御殿跡。江戸時代中期まで政庁や藩主の住居のための御殿があった場所。度重なる水害のため、1770(明和7)年に城の南西に位置した花の丸に御殿を移した。

実質的な天守であった戌亥櫓台。この石垣は松代城内でも一番古いもので、近世初期まで遡るそうで、その高さと勾配の美しさは、当時の石工の技術の高さを物語っています。

戌亥櫓台からの風景

北不明門(きたあかずもん)

水堀

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