見前館(岩手県盛岡市)

◆2010年10月23日(土)撮影
斯波氏全盛の頃、その重臣の一人であった見前若狭の居館といわれる。父実国は天文年間にこの地に入ったという。主家斯波氏は家長を祖とし、足利尊氏の一族として高水寺城に重きをなしていた。元亀・天正になって斯波氏はたびたび南部勢と戦火を交え、ここは斯波氏の前線基地であったと伝えられている。
天正十六(西暦1588)斯波氏は南部氏に滅ぼされ、天正二十年(同1592)に館は破却された。いまも大手先・搦手・観音堂・鎌倉道・仏田などの地名が残っている。
盛岡市教育委員会
(以上、現地案内板より)

現在では館の遺構は全く見られませんでした。

見前館跡の案内表示。

看板を拡大。

案内板のすぐ近くにあった「舘」バス停。

館跡は現在、畑や水田になっていて館の名残は全くありません。
※メモ
※斯波氏
 斯波家は足利氏の名族で、室町幕府時代には細川氏、畠山氏とともに将軍に次ぐ重職である管領をつとめるなどの名門である。斯波氏は清和源氏足利氏の一族 で、足利泰氏の長男家氏(鎌倉中期、生没年不詳)を祖とする。家氏は陸奥国斯波郡(現在の岩手県紫波郡)の所領を譲られ、斯波を称したことが斯波氏の始まりと伝えられている。ただし当初は足利氏を称しており、斯波を名字とするのは室町時代となってからのことである。また、家氏は実際にこの地に下向したわけではなく、代官を派遣して統治させたと思われ、実際の下向は玄孫に当たる斯波家長の時である。
 南北朝時代は足利初代将軍である足利尊氏より斯波家長が陸奥守に任じられて斯波郡に下向し、この地に高水寺城を築城して本拠地とし、奥州における北朝の重要地域として南朝方の北畠顕家や根城南部氏と対立した。
 その後、いろいろな分家に分かれ、室町時代に幕府の三管領の筆頭となった一族(武衛家と呼ばれ本家である)や、越前、若狭、越中、能登、遠江、信濃、尾張などを領した守護大名の一族がある。
 その中で、奥州に土着した庶流の斯波氏は、奥州斯波氏と呼ばれ、高経長男の系統である高水寺斯波氏、高経弟の家兼の系統である大崎氏、最上氏などがあげられる。

関連項目
→高水寺城(新しいウィンドウで開きます)

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