盛岡城(岩手県盛岡市)


 城主となる南部氏は、もともと三戸地方を領有していたが、1590(天正18)年、南部家26代当主(南部藩初代藩主)南部信直は小田原の役に参陣して、豊臣秀吉より7郡(糠部・鹿角・岩手・志波・和賀・稗貫・閉伊と言われる)の所領を安堵された。さらに1591(天正19)年同族である九戸氏が起こした九戸政実の乱を豊臣政権の手によって鎮定、いわゆる豊臣秀吉の「奥州仕置き」により、南部氏の支配は安定を見せる。居城を三戸城から南よりの九戸城へ移し、城の名を福岡城と改めた。しかし、福岡城は領土の北に偏りすぎて領土統治に不便を来すため、不来方(こずかた)の地に新たな城を築城することとし、1597(慶長2)から築城工事に着手し、翌年には豊臣秀吉より許可を得て本格的な築城が始められた。ちなみに、「不来方」の地名を「盛岡」に改めたのもこの頃といわれる。
 盛岡城が完成したのは2代後の三代藩主南部重直の時の1633(寛永10)年で、実に40年あまりの歳月が流れていた。
盛岡城は、北上側と中津川の合流点にある丘陵につくられた平山城で、豊臣期の大坂城の構造に似ていて、築城に当たっては大きな影響を受けたと言われます。北から、勘定所、三の丸、二の丸、本丸などで構成されていました。
 廃藩置県後の1875(明治7)年、城内の建物は取り壊されたが、花崗岩を積み上げた荘厳な石垣はほとんど残り、現在では盛岡城跡公園(岩手公園)として整備され、一般市民に公開されている。

(2007年11月3日撮影)
盛岡城址の堀のあと

(2007年11月3日撮影)
盛岡城址の石垣(1)

(2007年11月3日撮影)
盛岡城址の石垣(2)

(2007年11月3日撮影)
石垣と紅葉

(2010年9月26日撮影)
「彦御蔵」(1)
盛岡城に現存する唯一の建造物である「彦御蔵」。江戸後期に建築されたと推定される。
もともとは100m西側の市道脇にあったが、道路拡張により現在地に移した。

(2010年9月26日撮影)
「彦御蔵」(2)

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