鍋倉城(岩手県遠野市)

◆2011年5月31日(火)撮影
 遠野盆地の南方にそびえる物見山のふもとの独立丘陵である鍋倉山に築かれた山城で、標高は340メートル前後。現在見られる遺構は近世以後のもので、中世期の遺構は不明である。
 中世の豪族・阿曽沼(あそぬま)氏の居城。阿曽沼氏は始め横田城(護摩堂(ごまどう)城・現在の遠野市松崎町横田)を本拠地としていた。横田城は遠野盆地の西北部、猿ヶ石川の北岸に位置し、標高約300メートル、川床との比高は35〜40メートルと低くたびたび洪水の被害に遭ったため、阿曽沼広郷(あそぬまひろさと)の代になって天正年間(1573〜1591)の初めごろ(中ごろという説もあり)、本拠地を鍋倉山に移した。また市街地もこの同時期に移転させた。鍋倉城は阿曽沼氏の旧居城の名を受けて横田城とも、新横田城とも呼ばれた。
 豊臣秀吉の奥州仕置によって鎌倉時代以来400年にも及ぶ阿曽沼氏の支配は終わり、1601(慶長6)年、遠野は南部氏の治下に入る。最初は南部藩直轄地として城代が置かれたが、阿曽沼氏残党による治安の悪化や仙台藩との藩境である重要性を考え、南部27代利直は三戸南部氏と並ぶ有力な一族である八戸南部氏の八戸南部直義(なおよし)にこの地を支配させることとし1627(寛永4)年直義が遠野に入部、以後240年あまりの遠野南部氏12,500石の時代が明治維新まで続く。ちなみに遠野南部氏は盛岡藩御三家(遠野南部家、中野家、北家)の一つとして筆頭世襲家老職を勤めて盛岡城に常勤し、遠野には家老職を置くことが通例となった。領内では裁判権を認められ、「陪臣にして陪臣にあらず」や「藩中藩あり」と言われ独立した藩とみなされたこともあった。
 幕末の戊辰戦争では幕府側について破れ、1869(明治2)年に遠野城下に進駐した松本藩兵によって破却された。
 現在は、江戸時代の遺構が残り、敷地内は「鍋倉公園」として整備されて、三ノ丸址にある「なべくら展望台」があり、ここから遠野市街が一望できる。また敷地内には南北朝時代創建と伝えられる南部神社が建つ。

現地案内板。
自動車での城へ移動は、三の丸に駐車場が整備されているので可能。しかし、そこに通じる道路は車幅が狭く自動車一台が通るのがやっとであるため注意が必要。
ちなみに徒歩の場合、麓の南部神社からのかつての登城道が整備され、階段の連続ではあるが比較的容易に本丸まで行くことが出来ます。

城の概要(現地案内板より)。

三の丸内にある駐車場より遠野市内を眺めることが出来る。

三の丸跡。かつてはここに重臣の中館氏と福田氏を住まわせて、城の防備を固めさせた。現在は庭園として整備されている。

天守閣を模して作られた「なべくら展望台」。いわゆる「ふるさと創生事業」で作られた。

なべくら展望台わきにある記念碑(1)。

なべくら展望台わきにある記念碑(2)。

なべくら展望台より、手前の山に隠れるようにして早池峰山を眺めることができます。

二の丸から本丸への途中にある大手門跡。

本丸。中央の杭は「本丸館跡」の表記。

二の丸は現在、道路が設置されている。かつては家臣新田氏の分家の屋敷があった「小新田屋敷」や「城内馬場」が置かれていました。

二の丸から本丸への道の途中には搦手門がありました。

鍋倉山の麓には南北朝時代創建と伝わる「南部神社」があります。安土桃山時代から江戸時代は鍋倉城の麓にあることから「鍋倉神社」と呼ばれていました。

南部神社境内。

右にある階段は、かつての登城道。
※メモ
遠野阿曽沼氏
 阿曽沼氏は、藤原氏秀郷流足利氏の系統に属する。すなわち、足利有綱の二男広綱が下野国安蘇郡阿曽沼郷に居住して、阿曽沼氏を称したのが始まりである。源頼朝による奥州征伐によって、1185(文治5)年に奥州藤原氏が滅亡し、その広大な遺領は武功のあった鎌倉の御家人に配分されたが、この遠野保(田瀬・鱒沢・小友・綾織・宮森に大槌・釜石を加える)は下野国の阿曽沼氏の領地となった。その後、建保年間(1213〜18)に、本領阿曽沼郷を嫡子朝綱に譲り、遠野保は二男親綱に譲ったと伝える。遠野保はしばらくは代官を派遣しての統治だったが、実際に下向したのは南北朝期(1336〜1392)のことであろうというのが、近年における見解である。戦国期は、広郷時代が隆盛を誇り、遠野十二郷(田瀬・鱒沢・小友・綾織・宮森に大槌・釜石を加える)を支配した陸中最大の戦国大名にまでなり、葛西氏領の岩谷堂に侵略するなど対外的にも積極であった。また、広郷は中央の動向にも目を光らせ、1579(天正7)年7月には、使者を京都に送り、内大臣であった織田信長に白鷹を贈っている。こうした中央の動向にも注視していた広郷であったが、1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原攻めに参陣しないという失敗を犯す。いわゆる「奥州仕置」では蒲生氏郷の取りなしで改易は免れたものの、三戸城主南部利直に”お預け”、実質は南部家への臣下になった。この不参陣については、同様に「葛西氏・稗貫氏・和賀氏・江刺氏・大崎氏」などの近辺の有力大名も不参陣で領地没収という失敗を起こしているので、一概に批判されるものではない。
 1600(慶長5)年に広郷の子広長は南部利直に従って、最上に出陣するが、留守中に一族の鱒沢館主の鱒沢広勝・上野広吉(広長の弟と伝えられる)・平清水平右衛門が反乱を起こし、遠野を実質支配した。広長は妻の実家である住田の世田米修理を頼り世田米に居住し、伊達正宗の支援を受けて遠野郷を奪回しようと遠野郷に攻め込んだが、その都度南部氏の支援を受けた鱒沢氏に敗退を繰り返し、最終的には旧領を回復できずに阿曽沼氏は次第に没落し、広長は悲憤のうちに世田米で生涯を閉じ、嫡流は断絶した。ちなみにこの反乱は、首謀者の鱒沢広勝が南部利直の妹を妻にしていたため、南部家による遠野の完全乗っ取りをもくろんだ謀略であったと言われる。
 遠野阿曽沼氏のその後は、嫡流である広長系は断絶したが、弟とされる上野広吉の系統が残された。
しかし、上野広吉には娘4人がいたものの跡継ぎを残せずに次々に死去。上野広吉の死後、上野氏は2,000石を召し上げられ、一時断絶となる。しかし、八戸から遠野へ移封されて遠野領主となった八戸南部氏や先の当主で「女殿様」と呼ばれた清心尼公(八戸南部領主第19代・直栄の娘)の計らいで、百姓の子として育てられていた上野九右衛門(上野広吉の長女の婿)の子、与三郎を召し出して500石にて八戸家臣として再興させたといわれる。このように阿曽沼氏の血族が再興ということで阿曽沼遺臣達の喜びは大きかったものの、これによって阿曽沼氏再興の旗頭として利用されて後の災いになることを恐れ、与三郎を200石で盛岡南部家臣としたといわれる。

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