鼠ヶ関(山形県鶴岡市)

◆2020年7月4日(土)撮影
古代鼠ヶ関址
古代鼠ヶ関址および同関戸生産遺跡

 本遺跡は、山形県の鼠ヶ関と新潟県の県境にまたがって存在する。
 古代の関所「鼠ヶ関」は、陸奥国の菊多関(勿来関)、白河関と並んで、奥羽の三代関の一つである。
鼠ヶ関は能因の歌枕(十一世紀)に「ねずみの関」とあって、十世紀頃にはすでに旅人に親しまれていた。また「吾妻鏡」文治五年(1189)奥羽征討の条に、「越後の国より出羽念種関(ねずがせき)に出て合戦を遂ぐべし。」とあり、室町期の「義経記」に、義経、弁慶一行の関所通過が劇的に描かれている。
歴史上ほぼ確かな「鼠ヶ関」の存在は、平安中期からその末期ないし鎌倉初期までの十世紀から十二世紀頃までということになる。昭和四十三年の発掘調査の結果も、それに対応するものであることが確認された。
 古代鼠ヶ関の遺跡は、「千鳥走行型柵列址並建物址」(D地区)のほか、「製鉄址」(A地区)「土器製塩址」(B地区)「須恵器平窯址」(C地区)からなっている。つまり軍事警察的な防御を目的とする関所としての施設と、その中にそれをささえる高度の生産施設をもった、「関戸(せきこ)集落」によって「関」が成立していた。
 平安中後期の、出羽国の開発もずっと北にのびた階段で、南を検問し防備する関門の関所としての性格を物語っているのである。
(現地案内板より)

現地案内板

現状では痕跡を見ることが出来ません。

すぐ近くにある山形県(出羽国)と新潟県(越後国)の県境。一つの集落内にある珍しいもので、新潟県側には伊呉野(いぐれの)、山形県側には鼠ヶ関(ねずがせき)という集落があります。
近世念珠関址
 鼠ヶ関(鶴岡市鼠ヶ関・旧念珠関(ねずがせき)村には関所址が二ヶ所ある。ここ(鼠ヶ関字関)に慶長年間(一五九六〜一六一四)から明治五年(一八七二)まで設置されていた近世の関所址と、ここから南方約一キロメートルの県境にある古代の関所址である。
古代の関所 鼠ヶ関は、勿来関、白河関と並んで奥羽三大関門の一つとされていた。この鼠ヶ関が文献に現れる最も古いものは、能因の歌枕の「ねずみの関」であり、十世紀ころには文人や旅人に親しまれていた。
 大正十三年(一九二四)近世の関所址を主たる対象に、内務省より「史蹟念珠関址」として指定をうけ、それ以後この名称が古代から近世に至る関所名とされてきた。

古代鼠ヶ関(ねずがせき)址
 昭和四十三年(一九六八)十月、山形、新潟両県境一帯の発掘調査により古代関所址の存在が確認された。遺跡は、棚列址、建物址、須恵器窯址、製鉄址、土器製塩址が地下一メートルほどの所に埋蔵されており、関所の軍事施設と高度の生産施設をもつ村の形態を備えていた。この遺跡の年代は、平安中期から、鎌倉初期の十世紀から十二世紀にわたっている。これらを総合して「古代鼠ヶ関址及び同関戸生産遺跡と」と名付けられた。

近世念珠関址(ねずがせきし)
 このように、古代の関所址の貌が明らかになったことから、関にある近世の関所址を、「近世念珠関址」とし、「古代鼠ヶ関址」とを区別することにした。
 近世念珠関址は江戸時代には「鼠ヶ関御番所」と呼ばれていた。その規模は延宝二年(一六七四)や弘化三年(一八四六)の絵図によると街道に木戸門があり、門に続いて柵が立てられていた。番所の建物は三間(約十四メートル)平屋建、茅葺で屋内は三室に仕切られ、中央が取調所、両側が役人の上番、下番の控室であった。またこの役所は沖を通る船の監視や港に出入りする船の取り締まりもしていた。番所の建物は廃止後、地主家の住居となり、のちに二階を上げるなど改築されたが、階下は昔の面影をとどめている。
 関守りは、最上氏時代の慶長年間から鼠ヶ関の楯主佐藤掃部(かもん)が国境固役に当たった。
 酒井公転封後の寛永五年(一六二八)からも鼠ヶ関組大庄屋となった掃部が代々上番と沖の口改役となり、下番は足軽二人がいた。天和二年(一六八二)以後は藩士が上番となり掃部は追放者立会見届役となった。

鼠ヶ関と源義経
 「義経記」の義経一行奥州下りの鼠ヶ関通過の条は、歌舞伎の「勧進帳」を思わせるごとき劇的場面として描かれている。また、当地方には次のような物語が伝えられている。
 義経一行は越後の馬下(まおろし)(村上市)まで馬で来るが、馬下からは船で海路をたどり鼠ヶ関の浜辺に船をつけ難なく関所を通過した。そして、関所の役人の世話する五十嵐治兵衛に宿をもとめ、長旅の疲れをいやし、再び旅立って行ったという。
(現地案内板より)

現地案内板

当時の関所絵図(現地案内板より)

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