大萱生(おおがゆう)城主足跡 初代秀重公(又は秀親) 天正年中家督。大萱生上は南館、北館に分かれ北館を本丸として居城。 始めは鷲内玄蕃と称したが、後に大萱生玄蕃と姓を改める。室は斯波安芸之守詮愛の妹。(加筆注:大萱生氏は河村氏の一族であったと思われる) 天正十四年(一五八八)南部公の一門で斯波氏の女婿高田康実(後の中野修理)が故あって出奔したのを南部氏がかくまったことが発端となり南部・斯波両家に先端が開かれた。大萱生氏は康実の誘に乗り南部氏に属し本領を安堵された。同十六年南部氏に滅ばされた斯波氏が玄蕃を頼り大萱生に入る。玄蕃は旧主をかくまった罪を問われ同十七年十月、城を包囲されて落城する。しかし大萱生氏は翌年、康実を通じて南部信直公に嘆訴し本領は安堵された。 玄蕃は武蔵川越(埼玉県)の蓮光寺六世の僧、性翁慶守大和尚に帰依し菩提寺早池峰山瀧源寺(りゅうげんじ)を開基した。寛永十二年(一六三五)隠居八十二才、同十八年歿八十七才。法名、瀧源寺殿功嶽勲公居士。 二代秀春公(兄 秀直 与七) 寛永年中三戸城の御城代を勤む。万治二年頃(一六五九)隠居八十才。寛文七年(一六六七)歿八十九才。法名、源徳院殿法山正公大居士。 三代秀就公(又は秀純) 南部重直公の時、万治二年頃(一六五九)家督、貞享元年(一六八四)江戸上屋敷において死す。四十二才。江戸法名、覚海了直居士、瀧光院殿瓊岩宗瑤大居士。 四代秀記公(又は監物) 重直公の時、貞享元年(一六八四)家督。享保三年(一七一八)歿、五十八才。法名、大量院殿義峰宗仁大居士。 五代秀安公(又は秀経) 利幹公の時、正徳四年(一七一四)藩代を勤める。享保三年(一七一八)家督。同八年(一七二三)歿、三十三才。法名、量壽院殿剛嶽恵金大居士。 六代秀雄公 利幹公の時、享保九年(一七二四)家督時に九才。寛保三年(一七四三)歿、二十七才。法名、清涼院殿點頭大奇大居士。 七代秀位公 大萱生庄右ヱ門秀安の子。本家秀雄公末期の養子となる。寛保三年(一七四三)家督。宝暦三年(一七五三)歿、三十四才。法名、受徳院殿傑山了勝大居士。 八代秀妙公(又は兵馬) 六代秀雄公の長男。南部利雄公の時宝暦四年(一七五四)正月家督九才。元文元年(一七三六)山火事発生し瀧源寺も類焼す。明和三年(一七六六)再建に取組み翌年完成。秀妙公は中興の祖である。文化二年(一八〇五)歿、六十四才。法名、臥雲院殿放曠任性大居士。 九代嵩高公(又は岩見・外衛) 奥瀬定富の子にして、秀妙公の養子となる。江戸家老を勤める。天保八年(一八三七)歿。法名、玉瀧院殿忠山源功大居士。 十代嵩厚公(又は求馬) 天保四年(一八三三)歿。法名、源壽院殿寛山恵仁大居士。 瀧源寺二十四世下斗米祖童起草 (現地案内板より) |
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現地案内板 |
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ふもとにある瀧源寺。 |
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瀧源寺の南側、城の北側にある沢。人工的な空堀ではなく天然の沢かもしれません。 |
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城の西側の外周部。 |
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館の入口。大萱生歴代城主の墓があります。 |
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100メートルほど緩やかな勾配を登ります。 |
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大萱生歴代城主の墓です。前述の案内板によれば幕末までの歴代当主の墓があります。 |
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主郭(北館)は、先ほどの墓の一段上にあります。 |
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主郭は現在、果樹園となっています。 |
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主郭からの眺め。 |
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乙部川を挟んで南側に南館があったということですが、詳しい位置は不明でしたので、訪問は断念しました。 |
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主郭の西側と南側に数段の段築が確認出来ます。こちらは南側。 |
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主郭南側の段築。かなりの傾斜です。 |
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ふもとの瀧源寺にあるシダレカツラ。かなり珍しいものだそうです。 |
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現地案内板 当山曹洞宗早池峰山瀧源寺(りゅうげんじ)は天正二年(一五七四年)性翁慶守(しょうおうけいしゅ)大和尚の開山したものである。 このシダレカツラの原木は現在の花巻市大迫町内川目の山中で発見され、早池峰神社在所の岳の妙泉寺境内に移植された後、慶守大和尚がこの地に移し変えたものという。元来、カツラの木は、直立型の枝を生じるが、このシダレカツラはいずれもしだれており、学術上珍しいものとみなされている。天保六年(一八三五)に寺の建築材として伐採され、現存するシダレカツラは切り株から萌芽したひこばえが生長したものである。第二世のこのシダレカツラは、樹齢約百八十年、高さ二十二メートル、目通幹囲が約三.五mに達している。 本市内には、この木から株分けされたシダレカツラが門(かど)と肴町(さかなちょう)にあり、これら二本のシダレカツラも国の天然記念物として同時に指定を受けた。 なお、シダレカツラの増殖は当初容易ではなかったものの、本市内の阿部善吉氏の永年苦心された研究によって接ぎ木による大量増殖が可能となり、現在は、市内はもとより県内外各地で見られるようになった。 |
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