大坂城(大阪府大阪市)

◆2012年2月9日(木)撮影
 大坂の地に初めて城を築いたのは、1496(明応5)年に浄土真宗本願寺派中興の祖といわれる蓮如が、この地に一軒の宿坊を建てたのがはじまりである。次第に坊舎の規模は拡大し、この当時の石山本願寺は、堀や石垣などを備える立派な城であった。1570(元亀元)年、蓮如の曾孫にあたる顕如は、織田信長と交戦状態に入り、1580(天正8)年、織田信長と本願寺顕如・教如父子は講和を結び、本願寺顕如・教如父子は大坂を退去。ほとんどが焼けてしまった石山本願寺の跡地に、甥・織田信澄と丹羽長秀を城代として大坂築城を命じた。信長の死去、豊臣秀吉が1583(天正11)年築城を開始し、本丸はわずか1年半で完成した。
 現在、大坂城は「太閤さんの城」と言われるが、秀吉は聚楽第や伏見城に居を構えたので、実際大坂城に居城していたのは、関白となる前、豊臣姓を名乗る前の1,2年に過ぎなかった。

 1598(慶長3)年の豊臣秀吉の死去により、遺児である豊臣秀頼が伏見城から母淀殿とともに大坂城へと移り、生涯2度しか大坂城を離れることがなった。

 1615(慶長20)年、大坂夏の陣で大坂城は落城して豊臣家は滅亡、大坂城は灰燼と帰した。大坂夏の陣後は、家康の外孫に当たる松平忠明の領地となったが、豊臣残党に目を光らせるためにこの地を幕府直轄地(天領)とし、1620(元和5)年から、2代将軍徳川秀忠によって全国諸大名に命じ天下普請として大坂城の再建が始められ、3期にわたる工事を経て1629(寛永6)年に完成した。豊臣色を一掃するために大規模な盛土や石垣の積み上げ、堀の掘り下げが行われ、かつての大阪城は大きく造り替えられた。ちなみに豊臣秀頼への対抗心からか天守閣は15メートルも高くなったという。

 江戸時代にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返した。特に1665(寛文5)年には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城であった。

 江戸末期、1868年1月3日(慶応3年12月9日)に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、居城していたが、1868年1月27日(慶応4年1月3日)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡された。この前後の混乱のうちに出火し、城内の建造物のほとんどが焼失した。

 現在の天守は1931(昭和6)年に当時の大阪市長の提案で復元がはじまり、資金は大阪市民の募金によってまかなわれ、しかもわずか半年で集まったと言う。ちなみに現在復元天守は全国で30以上もあるが、その第一号でもある。また、当時最新の鉄骨鉄筋コンクリート造りであった。

 太平洋戦争中、大坂城は周辺に陸軍第4師団総司令部など重要な軍事施設が集中していたため空襲の目標にされ、数度の大阪大空襲により1868(慶応4)年の火災では被害を免た二番櫓・三番櫓・未申櫓・伏見櫓・京橋口門を焼失、また青屋門に甚大な被害を受けたが、復元された天守は被害を免れた。

 1959(昭和34)年に大坂城の大規模な発掘調査が行われ、地下に埋もれていた「謎の石垣」が発見された。このことによって、現在見られる石垣は太閤時代のものではなく、徳川時代のものであったことが初めてわかった。

青屋門。大坂城二の丸の北に位置する出入口。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が始まった1620(元和6)年頃と考えられる。戊辰戦争の大火によって被災し、その後陸軍によって改築されたものの、1945(昭和20)年の空襲で再び大破した。1969(昭和44)年に大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門。

極楽橋。山里丸と二の丸とを結ぶ橋。豊臣時代にもこの付近に架けられた橋も極楽橋と呼ばれた。大坂夏の陣で落城後は、徳川幕府が再築したときにかけ直された。戊辰戦争の火災によって焼け落ちたが、97年後1965(昭和40)年に再架橋された。

山里丸
内堀に囲まれた大阪城本丸のうち、天守北側の一段低い区域をとくに山里丸(山里曲輪)と呼ぶ。1583(天正11)年に大坂城築城を開始した豊臣秀吉は翌年1月、天守完成よりも早く、ここで茶室完成のお披露目を行っている。

天守下仕切門跡
天守台の東側は石組によって南北が隔てられており、通路となった個所の門を仕切門と呼んだ。徳川幕府による大坂城再築時に築かれ、戊辰戦争の大火により石垣上にあった塀ともども焼失したと考えられる。

復元天守(1)

復元天守(2)

金明水井戸屋形(重要文化財)
伝説では豊臣秀吉が水の毒気を抜くために黄金を沈めたと言われているが、戦後の学術調査により、この井戸は豊臣時代のものではなく、徳川幕府による大坂城再築工事にともない、1624(寛永元)年に新たに掘られたものであること、さらに井戸屋形は1626(寛永3)年に創建された当時のもので、同じ年に築かれた天守が1665(寛永5)年に焼失したさいにも類焼を免れたことが判明したという。

復元天守入口に設置された号砲。1863(幕府の命令により、美作津山藩(岡山県津山市)の鋳工・百済清次郎らが製造し、大坂天保山砲台の備砲として備え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたものと伝えられる。
1870(明治3)年から時刻を知らせる号砲として用いられ、「お城のドン」、「お午のドン」の名で市民に親しまれた。火薬節約その他の理由により1923〜24(大正12〜13)年頃の中止されたが、その時期と事情ははっきりとしていないという。

復元天守天井からの眺め(1)
中央に見えるのは生駒山。

復元天守天井からの眺め(2)
大阪城ホール。

復元天守天井からの眺め(3)
中央に見えるのは金剛山。

復元天守天井からの眺め(4)
大坂のもう一つのシンボル、「通天閣」を見ることが出来ます。

復元天守天井からの眺め(5)
難波宮史跡公園。
1961(昭和36)年の発掘調査により、前後2期の難波宮跡が確認され、現在は公園として整備されている。すなわち、650(白雉元)年に造営の始まった「難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)=「前期難波宮」」と726(神亀3)年に造営された「後期難波宮」である。

大坂城敷地内には旧陸軍第四師団司令部があり、戦後は大阪府警察本部、大阪市立博物館としてながらく使用されていた。

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