七戸城は、七戸町中心部の西側、七戸川支流作田川の左岸、標高約40mの丘陵に立地している。 七戸城は北館、本丸、下館、西館、角館、宝泉館、南外郭、西外郭、貝ノ口郭、北西外郭等の郭から構成され、従来は本丸(柏葉公園)が城の中心とされてきたが最近の発掘調査の結果、北館が城の中心であったことがわかってきた。 七戸城の築城年代は不明だが、史料上では1334(建武元)年に北条氏の代官として、五戸と七戸の地頭職にある工藤右近将監の名が見られることから、七戸城の最初の城主とも言われるが、定かではない。北条氏が滅んだのち、七戸は伊達氏・結城氏を経て1335(建武2)年根城南部氏南部師行の弟南部政長の所領となる。新田義貞の鎌倉攻めに馳せ参じて功を挙げ、その恩賞として与えられたものである。以後、七戸城は根城とともに根城南部氏の支配下に置かれ、南朝の一大拠点となった。南北合一後、根城南部氏第8代南部政光が居城とし、その子政慶以降から七戸氏を名乗るようになる。 16世紀中頃には、宗家の地位を確実にした三戸南部氏に支配下に組み込まれた。1591(天正19)年の三戸南部家の家督相続問題に端を発した九戸の乱で、当時の城主七戸南部家国は政実に味方した。南部信直は豊臣秀吉に援軍を要請し、秀吉が派遣した奥州仕置軍によって乱は平定された。家国は斬首され七戸南部氏は滅亡した。 七戸城は南部領の北の押さえ、特に津軽藩に対する押さえとして、また北方世界との交易拠点として重要な位置を占めているという重要性から、浅水城主で南部信直の弟直勝が七戸氏の名跡を継ぎ、1597(慶長2)年にはその子直時が七戸2,000石の城主となった。直時が没し、1647(正保4)年南部利直の五男重信が七戸氏を継いだが、1664(寛文4)年には南部宗家を継ぐこととなった為、南部直轄地となり、七戸代官所が設けられた。 |
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七戸城跡にたつ2本の巨木。左が樹齢約300年の杉の木、右が樹齢約500年のもみの木で、現在は倒木の恐れがあるため周辺は柵が設置され、近づくことが出来ません。 |
巨木の隣にある「七戸城」の石碑。 |
案内板 |
二の丸。代官当時の時代、ここの代官所が設けられた。現在は公園として整備されている。 |
案内板拡大。七戸城跡の全体図。 |
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案内板拡大。近世(江戸時代)の七戸代官所。 |
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二の丸と北館との間にある水濠 |
城下にある姫塚。 昔、七戸城の殿様には美しいお姫様がおり、身分の低い武士と恋仲となり、それがある日、殿様に知られ、相手の武士は殺されてしまった。その殺された武士の跡を追い、お姫様も自害したと伝えられる。現在の石碑は1972(昭和47)に、三百年忌追善供養のために建てられたもの。 |
2008(平成20)年に復元された七戸城東門。文献に残された記録、そして城の縄張り構造などから復元整備されたもので、おそらく「九戸政実の乱」の頃のもの。 |