島守館(青森県八戸町)

◆2021年4月29日(木)撮影
 島守館は、島守盆地の北西部にある南東に延びた丘陵の縁端部で、平坦になった部分を利用して造られている中世の城館跡と見られています。北側は「外館」と呼ばれ、南側が「館」と呼ばれており、「館」が本郭部分と見られます。東西約90m、南北約150m、中央部は周辺部より1m高くなった一段があり、館主の居館跡と見られます。
 伝承では、南部氏の一族である四戸氏が代々居住して「島守氏」を名乗っていたとされております。島守氏は1591(天正19)年の「九戸の乱」では九戸側について、時の城主島守安芸が九戸城に入り、九戸城の戦いの前の7月に南部側に付いた八戸政栄によって攻め落とされ、島守安芸も九戸城の戦いで討ち死にしたと言われます。その後の論功行賞で、この地は八戸政栄に与えられています。
 なお、この戦いで落ち延びた兵が現在の福地村麦沢に移り住んだため麦沢には島守の名字が多いとされています。
 また、島守の名の由来は、陸奥の隅の方にあったので、隅森、後に島のようであったから島守に転じたとされています。
(現地パンフレットより引用)

館全景
左側が主郭のある「館」で現在は農園と公園に整備され、右側が「外館」で現在は民家の建つ民有地となっています。

案内板

島守舘案内図
(案内板より)
左側が北で、「本郭」と「ニノ郭」の表記が見えます。

本郭入口

本郭入口

写真右の茅葺きの建物のある一番高い場所が主郭部分と想定されます。

地元の案内人の方のお話によると、館とは無関係で、近隣の頃巻沢集落より移築された古民家だそうです。

民家内部(1)

民家内部(2)

民家内部(3)

主郭から島守集落を一望できます。

主郭東側。急峻な斜面となっています。

主郭裏(西側)にある急峻な空堀が唯一の遺構です。地元の案内人の方によると、主郭は農地として長らく使用されていたため、重機などによる土地の掘り起こしなどが進み遺構はかなり破壊されて出土品もほとんど無いとのことです。

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