白河小峰城(福島県白河市)

2011年2月22日(火)撮影
 東京観光した後、東北本線各駅お遍路旅の途中、白河小峰城に行ってきました。実は前々から行きたいと思っていたものの、なかなか機会に恵まれなかったんですが、今回ようやく念願が叶いました。季節は2月なので空気が澄んで、写真撮影にはまたとない時期ですが、この日はそれに加え天気がよく最高の状況でした。
 感想としては、全国各地にある復元天守の中で、この城は残念なコンクリート作りではなくおそらく唯一の木造建築という、一番忠実な復元方向で、これだけでも見る価値はあります。あと、個人的には石垣が素晴らしかったです。今まで見てきた石垣は石が大きくて武骨な印象ばかりでしたが、この城の石垣は小振りで大きさもそろっていて上品さを感じました。

 白河小峰城は、南北朝時代の1340(南朝:興国元、北朝:歴応3)年に、結城親朝が小峰ヶ岡に築城して小峰城と名付けたのが始まりとされる。その後、結城氏は豊臣秀吉による「奥州仕置」で小田原攻めに参陣しなかった理由で改易され、その後は蒲生氏、上杉氏、再度、蒲生氏が支配した。江戸時代になると、奥州の押さえとして重要であったためかたびたび支配者は変わり、丹羽氏を除くとすべて譜代、親藩であった。その中で有名なのは、久松松平氏3代の松平定信(御三卿田安家より養子入り)で、藩領内では名君と慕われる。次第に幕府内でも頭角を現し、老中首座となりいわゆる「寛政の改革」を行った。

 現在の天守閣は、1627(寛永4)年に、築城の名手と言われた丹羽長重が10万石で棚倉城(福島県棚倉町)から移封され、幕命により、1629(寛永6)年より城郭の大改築に着手、4年の歳月を費やして1632(寛永9)年に完成した。ちなみにこの城には天守は作られず、「御三階櫓」が実質的な天守であった。1868(慶応4)年、白河小峰城は戊辰戦争で激しい攻防の場となり、5月1日、大半を消失して落城した。

 その後、1991(平成3)年に本丸跡に天守に相当する三重櫓が、1994(平成6)年に前御門が当時の資料に基づいて復元された。天守の復元は昭和期に全国的に行われたが、大規模な木造建築は安全性の面から建築基準法で原則禁止されているため、みな鉄筋コンクリート造りで、外観のみを元に復した外観復元である。

 唯一の現存建築物は、現在茶屋として利用されている太鼓櫓がある。かつては二の丸入口付近の太鼓門西側に建てられていたが、1873(明治6)年に民間に払い下げられ、三の丸の紅葉土手に移築された後、1930(昭和5)年に現在地に移築された。二度の改築により、建物は改造され原型は大きく損なわれているが、当時の面影を残している。2010(平成22)年8月5日、国の史跡に指定。

(歴代城主)
結城氏(1340〜1590)
蒲生氏(1590〜1598)
上杉氏(1598〜1601)
蒲生氏(1601〜1627)
丹羽氏(1627〜1643)
榊原氏(1643〜1649)
本多氏(1649〜1681)
奥平松平氏(1681〜1692)
越前(結城)松平氏(1692〜1741)
久松松平氏(1741〜1823)
阿部氏(1823〜1866)
幕府領(1866〜1868)
明治政府直轄地(1868〜1871)
「御三階櫓」(天守閣に相当)

JR白河駅のホームから撮影。

御三階櫓と前御門。前御門は正門とも言える門で、本丸の防御を担っていた重要な門。
御三階櫓内部

戊辰戦争時の鉄砲の弾の跡。
御三階櫓を復元するとき、松並稲荷山の杉の大木を材料として利用した際、その木から弾痕が発見され、そのまま使用したとのこと。
石垣

石垣の石は全体的に小振りで大きさもそろっていて、上品な感じが漂います
大手門跡の礎石

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