築城時期は不明であるが、1340(興国元)年ごろに南朝方の鎮守府将軍・北畠顕信が滴石に御所を置いた記録が残り、この御所とは恐らく滴石城の事を指すものと思われる。そのため、南朝方の拠点としてこの地を治めていた滴石戸沢氏(しずくいしとざわし)によって1340(興国元)年ごろに築かれたとするのが有力な見解である。 滴石戸沢氏の勢力は現在の秋田県の仙北(せんぼく)地方にまでおよび、同じ南朝方の南部氏らとともに行動し、そのころ高水寺城(現在の紫波町城山公園)にあった北朝方の斯波氏と対峙するため鎮守府将軍・北畠顕信を迎えた。顕信の在城は1346(正平元)年から5年間とされている。その後1423(応永30)年、滴石戸沢氏の本流は角館に移り(諸説あり)、滴石城には庶流を配していた。16世紀になって城主戸沢氏(一説には手塚氏)は南部氏と対立する。1540(天文9)年の戦で戸沢氏は南部氏に敗れるが、戦後の混乱の中、1549(天文18)年に斯波氏の攻撃を受け、滴石は斯波氏の勢力下になった。その後雫石氏を名乗り3代に渡って在城した。このときに「滴石」が「雫石」に改められ、雫石城は整備・再建された。しかし雫石(斯波)氏も1586(天正14)年南部氏に敗れ、以後この一帯は南部氏の支配を受けた。城は1592(天正20)年豊臣秀吉の破却令により破却となった。 城主 戸沢氏(南北朝時代〜1540年)→南部氏(1540〜1549年)→斯波氏(1549〜1586年)→南部氏(1586〜1592年) |
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旧国道(秋田街道)から主郭跡へ続く道の入口。ちなみにこの旧国道(秋田街道)は雫石城の真ん中を東西に通っているそうです。 |
主郭跡には八幡宮を祀る八幡神社が建てられています。 |
案内板。これがなければここが城だったことがわからないくらいひっそりと建っています。 |
神社の裏。急な崖になっていて、さすがは城跡です。 |
空堀の跡(1) |
空堀の跡(2) |
雫石城遠景 |
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メモ ※戸沢氏 戸沢氏は桓武平氏貞盛流で平忠正の孫・衡盛が寿永年間(1182〜84)に大和国三輪より陸奥国磐手郡滴石荘に下向したのが始まりである。1189(文治5)年、衡盛は源頼朝による奥州合戦に臣従し、その功により滴石荘4千6百町歩の土地、出羽国山本郡の地頭職を与えられて大身の御家人となる。その際、滴石荘戸沢村に居を構えたことから戸沢氏を名乗るようになった。 南北朝時代には南朝側に属したものの、最終的には北朝に帰順した。南北朝時代の1423(応永30)年には、滴石戸沢氏の本流は角館に移り(諸説あり)、滴石城には庶流を配していた。 滴石戸沢氏はその後、16世紀になって南部氏と対立し、1540(天文9)年の戦で雫石戸沢氏は南部氏に敗れて歴史から消えることになる。 一方の角館戸沢氏は地方の小領主と勢力を減じたものの戦国時代を乗り切り、小田原参陣の功で豊臣秀吉より所領を安堵されて角館藩4万4千石となった。関ヶ原の合戦では徳川(東軍)方について、同じ東軍方の最上氏を助けて、石田方(西軍)の上杉家を攻めた。このことにより、1602(慶長7)年に角館より常陸松岡4万石(現在の茨城県)に転封される。 1622年には最上氏改易を受けて再び故郷の角館に近い新庄藩6万石(後に7万石)の藩主となり、明治時代に続くことになる。 ※斯波氏 斯波氏は清和源氏足利氏の一族で、足利泰氏の長男家氏(鎌倉中期、生没年不詳)を祖とする。家氏は陸奥国斯波郡(現在の岩手県紫波郡)の所領を譲られ、斯波を称したことが斯波氏の始まりと伝えられている。ただし当初は足利氏を称しており、斯波を名字とするのは室町時代となってからのことである。また、家氏は実際にこの地に下向したわけではなく、代官を派遣して統治させたと思われ、実際の下向は玄孫に当たる斯波家長の時でわる。 南北朝時代は足利初代将軍である足利尊氏より斯波家長が陸奥守に任じられて斯波郡に下向し、この地に高水寺城を築城して本拠地とし、奥州における北朝の重要地域として南朝方の北畠顕家や根城南部氏と対立した。 その後、いろいろな分家に分かれ、室町時代に幕府の三管領の筆頭となった一族(武衛家と呼ばれ本家である)や、越前、若狭、越中、能登、遠江、信濃、尾張などを領した守護大名の一族がある。 その中で、奥州に土着した庶流の斯波氏は、奥州斯波氏と呼ばれ、高経長男の系統である高水寺斯波氏、高経弟の家兼の系統である大崎氏、最上氏などがあげられる。 (高水寺斯波氏) 奥州斯波氏の中でも高経長男の系統に属す。 高水寺斯波氏は、足利家一門である上に、斯波氏発祥の地を治めたことから名族とされて、天皇家・将軍家やその一族にしか許されてなかった「斯波御所」「奥の斯波殿」の尊称が許された。また、室町幕府では重職であった管領と同格の奥州探題職を歴任していた同族の大崎氏と同格の扱いを受けていた。 戦国時代の16世紀になると南部氏と対立するようになり、1549(天文18)年には南部領の岩手郡滴石に侵攻して勢力下とするなど全盛期を迎えた。しかしその後の1565(永禄8)年から南部氏の進出が活発化するに従い、劣勢に立たされるようになり、最終的には南部氏の傍系で家臣筋である九戸氏から養子を迎えるという降伏に近い和睦を結ばざるを得ず、事実上の南部氏への従属を余儀なくされた。長く足利氏の一族として奥州北部に栄えていたが、1573(天正元)年には権威の後ろ盾であった足利幕府が崩壊し、一族で奥州探題の地位にあった大崎氏がこの頃までには奥州の一大名に過ぎない存在となっていた。かくして、政治的背景を失った斯波氏は、郡内諸城主に対する威信をも失墜し、南部氏の攻勢にさらされて所領の斯波郡六十六郷の統治すら困難になっていた。 最後の当主である斯波詮直(1548〜1597)の代には、斯波家内部の内紛が起こって家臣が離反していく中で1588(天正16)年に南部氏によって高水寺城は落城し、戦国大名としての高水寺斯波氏はついに滅ぼされた。詮直は旧臣にかくまわれてそのまま病没したと言われる。その子孫は南部氏に仕えたとも、二条家に仕えたともされている。 ※南部氏 南部氏は、清和源氏河内源氏義光流で、源義光の玄孫の源光行は甲斐国南部の河内地方にあたる巨摩郡南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)に住み、南部氏を称したという。その後、平安時代末期の奥州合戦のころ、光行が功により奥州糠部(現在の青森県から岩手県にかけての地域)の地に所領を得て土着したと言われてきた。しかし現在では、鎌倉時代、糠部郡は北条氏得宗領であったことが明らかとなっており、鎌倉時代より南部氏が陸奥に所領を得ていたという説は現在は疑問視されていて、南部氏は北条得宗家の被官として奥州に所領を得ていたか地頭代として赴任していたと考えられるという。 南北朝時代は一族の中で南朝(八戸南部氏)・北朝側(三戸南部氏)に分かれた。南北朝時代以後の室町期になると陸奥北部最大の勢力を持つ一族に発展した。しかし、一族内の実力者の統制がうまくいかず、そのために内紛が頻発し、一時、衰退した。この室町時代から安土桃山時代にかけての南部氏には宗家と呼べるような確固たる権力を所持する家が存在しない同族連合の状況であった。 戦国時代になると、三戸南部氏の出身で南部氏第24代当主である南部晴政が現われ、他勢力を制して陸奥北部を掌握した。晴政は積極的に勢力拡大を図り、南部氏の最盛期を築き上げた。また、晴政は外交にも優れており、中央の織田信長とも誼を通じるなどしていた。しかし、その後は家中の内紛に苦しむことになる。晴政の晩年には南部氏の一族とされる大浦為信が挙兵し南部一族同士の争いが勃発し、為信に津軽地方と外ヶ浜と糠部の一部を占領され、為信は豊臣秀吉から所領を安堵されたために南部氏は元々不安定だった大浦氏の統制を完全に失うことになる。1582(天正10)年に分家出身の南部信直が晴政、晴継父子から家督を相続した際に晴政親子が急死していることから、晴政親子は信直によって暗殺されたとする説もある。 1590(天正18)年、南部氏第26代当主である南部信直は豊臣秀吉の小田原の役に参陣して南部7郡の所領を安堵された。同族の九戸政実が起こした九戸政実の乱も豊臣政権の手で鎮圧され、南部氏は安定した基盤を得ることとなる。 江戸時代、三戸南部氏は盛岡藩の歴代藩主になり、明治時代を迎える。 南部氏にはいろいろな支族があった。 (三戸南部氏) 三戸に根拠を置いた系統は三戸南部氏と呼ばれる。三戸南部氏の系譜は明確ではないが、南北朝時代に奥州に下向した南部氏の一族と見られている。従来、三戸南部氏は鎌倉時代にこの地に下向した南部氏の宗家と考えられてきた。 三戸南部氏は南北朝時代には北朝を支持していたが、いつごろ南部氏の宗家としての地位を築いたのかはわかっていない。 (八戸南部氏) 南部氏は多くの支族を抱えていたが、その中で南部師行は南部氏としては記録上初めて、南北朝時代に北畠顕家に従って奥州に下向した。師行は糠部の八戸の地に根城(現在の青森県八戸市根城)と呼ばれる、従前に工藤氏の拠っていた城を接収し、居城とした。師行が一時、工藤氏を称していたとの説もある。 南部師行の子孫は八戸氏を称し、一般には根城南部氏と呼ばれる。従来、根城南部氏は南部氏の有力な分家として見られてきたが、近年の研究では、根城南部氏が 当初は南部氏の宗家に位置付けられていたと推定されている。いずれにしても、根城南部氏は南朝を支持していたために南朝の衰退に伴って14 世紀半ばからは次第に力を弱めたが、17世紀前半までは下北地方などを領有し、南部氏のなかでも比較的大きな勢力を有していた。 1617(元和3)年には、所領のうち下北地方を、幕藩体制下で宗家としての地位を確固たるものにした三戸南部氏(盛岡南部氏)によって接収され、1627(寛永4)年に遠野(現在の岩手県遠野市)に移される。これ以後の根城南部氏は遠野南部氏と呼ばれ、江戸時代を通じ、盛岡藩の世襲筆頭家臣であった。なお、遠野南部氏が、日蓮に帰依し身延(現在の山梨県南巨摩郡身延町)の地を寄進したとされる八戸実長(波木井実長)の子孫を称するようになるのは江戸時代後期になってからである。 |