高田城(新潟県上越市)
(2011年10月10日(月)撮影)

 最初にこの地に城が築城されたのは、1610(慶長15)年に高田藩へ移封された徳川家康六男の松平忠輝による。居城とした福島城が手狭だったために、幕府に築城許可を願い出る。そこで幕府は天下普請として、忠輝の舅・伊達政宗や加賀前田家をはじめとする十三大名家に命じて1614(慶長19)年に1月から7月までの6ヶ月という突貫工事で築城させた。ちなみに城地の縄張りと工事の総監督は忠輝の舅の伊達政宗である。
 この城の特徴としては、天守閣が建築されなかったことと(三重櫓で代用)、石垣が積まれていないことである。理由としては、大坂冬の陣の直前で工事を急ぎ、わずか6ヶ月で完成させたこと、石材の供給地が近くになかったこと、地盤が軟弱であったことなどが考えられている。
 創藩当時の高田藩は加賀前田藩への押さえとして重要な位置づけをされていたが、泰平の世が続くと次第にその役割は小さなものとなっていった。松平忠輝の改易や越後騒動など相次ぐ事件によって、幕府にとって高田藩は負のイメージを抱かせるものとなり、江戸中期以降はしばしば親藩、譜代大名で不始末を犯した大名の懲罰的な転封先、いわば「座敷牢」のような位置づけが強くなった。こういった理由で転入封が目まぐるしく、藩主がたびたび代わっていったが、ようやく安定したのは、1741(寛保元)年に姫路藩より入封した榊原家の時で、明治維新まで続くこととなる。
 明治以降、1870(明治3)年の火災で高田城三重櫓の焼失や、陸軍の駐屯地として使用するために大規模な土塁の撤去、堀の埋め立てが行われ、旧城地の東半分は旧状をとどめていない。本丸を含めた西半分には堀、土塁の一部が残されており、現在は公園として整備され、1993(平成5)年には三重櫓が復元された。

城主
1610〜1616年 松平(長沢)家
1616〜1618年 酒井家
1618〜1681年 松平(越前)家
1681〜1685年 天領(幕府直轄地)
1685〜1701年 稲葉家
1701〜1710年 戸田家
1710〜1741年 松平(久松)家
1741〜1871年 榊原家

外堀の蓮。東洋一の規模とも言われ、年に一度祭りが開催されています。明治時代、職を失った武士のためにレンコン栽培を目的に植えられたと言います。

城の敷地は公園や運動施設などになっています。

上越市発足20周年記念事業として1993(平成5)年に復元された三重櫓。内部は資料展示がされていて、屋上は展望台となり、城下を見渡すことが出来ます。

江戸時代の本来の三重櫓は1871(明治3)年の火災のために焼失しました。

三重櫓屋上の展望台からの眺め。南方向です。

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