高畠城・高畠陣屋(山形県東置賜郡高畠町)

◆2017年9月16日(土)撮影
 築城時期は不明ですが、平安時代末期の承安年間(1171~1174)年に奥州藤原氏3代藤原秀衡の従弟である樋爪季衡が築城したという説があります。その後、伊達氏が置賜地方に勢力を拡大すると、当地支配の重要な拠点として改修したと見られます。応永年間(1394~1428)年には伊達儀山公政宗により伊達氏の居城として修築が行われました。その後伊達氏の居城が1542(天文11)年に米沢城へ移されると、永禄年間(1558~1570)から1590(天正18)年までは伊達氏の家臣小梁川氏の居城となりました。

 1591(天正15)年のいわゆる奥州仕置きにより伊達政宗は岩出山城(宮城県大崎市)に転封させられ、豊臣秀吉の家臣蒲生氏郷の所領の一部となりますが、子の蒲生秀行の時代の1598(慶長3)年に御家騒動により、宇都宮城(栃木県宇都宮市)に移封となりました。

 その後には上杉景勝が春日山城(新潟県上越市)より会津へ移封され、米沢城を与えられた直江山城守兼続の家臣であった春日右衛門元忠が城代として入り、1608(慶長13)年まで居城。1664(寛文4)年に上杉綱勝が嗣子なく急逝し、廃藩の危機に直面しますが、末期養子が認められたものの、米沢藩は30万石から15万石に半減され、伊達郡と信夫郡は失われた。この時、屋代郷(現在の高畠町一帯)は幕府領に移されるものの米沢藩に預けられていたが(預地)、1689(元禄2)年に屋代郷は幕府直轄領となり、米沢藩の役所は高畠から糠の目に移される。これで一旦、高畠城は廃城となった。その後、1742(寛保2)年に再び幕府領米沢藩預地となる。

 1767(明和4)年8月、上野国小幡藩主織田信邦が明和事件に連座したため、小幡(群馬県甘楽町)から高畠への移封を命じられた。この時、石高は5万石から2万石へ減封され、織田信長の子孫ということで認められていた国主格などの特権も全て剥奪される懲罰的なものであった。しかも領地も屋代郷の全域を領していたわけではなく(実際周辺のわずか6村のみであった)、大部分は遠く離れた天童を中心とした村山郡に集中していた。
 1826(文政9)年には陣屋が焼失したのをきっかけに、陣屋を高畠から天童に移そうと幕府に願い出て、1828(文政11)年5月に幕府から許され、1830(天保元)年に陣屋を天童に移し、御役屋のみを残して他は廃棄された。その後、屋代郷一帯は幕府領となり、1848(嘉永元)年に三度目の幕府領米沢藩預地となると陣屋跡には御仮屋が設けられる。1866(慶応2)年に正式に米沢藩領に組み入れられるが、戊辰戦争に米沢藩が敗れると1869(明治2)年には新政府領となり御仮屋も廃されました。
 釣鐘のような形状から鐘ヶ城とも呼ばれましたが、現在は建物の遺構はなく、跡地には高畠小学校が建ち、わずかに三の丸の水堀が一部残っているのみです。

城跡を示す石碑。

本丸跡には高畠小学校が建っています。

唯一の遺構である水堀(1)

唯一の遺構である水堀(2)

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