舘山城(山形県米沢市)

◆2017年6月25日(日)撮影
 舘山城は米沢市西部にある山城で、南側の大樽川、北側の小樽川に挟まれた標高310~330mの西から延びる丘陵東端部の山城、麓の河岸段丘上に形成された平場で構成されている。
 舘山城に関する記録「伊達治家(じか(け))記録」によると1570(元亀元)年頃の城主は伊達氏16代当主輝宗の家臣である新田四郎義直である。その後、1584(天正12)年に輝宗が家督を政宗に譲り、舘山城を自らの隠居所として普請を行い、普請が終わるまでの間は重臣鮎貝宗重の館に身を寄せ、翌年完成して居を移したが、同年の10月に輝宗は非業の死を遂げたため、隠居所として居住した期間はあまり長くなかったと考えられる。
 その後、1587(天正15)年には伊達政宗が普請を行うが、その後「伊達治家記録」に舘山城に関する記述がなくなる。1591(天正19)年の豊臣秀吉によるいわゆる奥州仕置により、伊達政宗は岩出山城(宮城県大崎市)へ居城を移し、その後、時期は不明であるが舘山城は廃城となった。
 近年の発掘調査により上杉時代の慶長年間(1598~1615年)後半から元和年間(1615~1624年)に普請されたとみられる石垣が発見されていたことからこの時代までは城として機能していた可能性が高い。しかし、1644(正保元)年から製作された「出羽国米沢城下絵図」では、舘山城跡の場所が「古城」と記述されていて、この頃にはすでに廃城になったと考えられる。

 伊達氏の居城であった「米沢城」は、江戸時代に米沢藩上杉氏の居城となった現在の米沢城と同じものとされてきた。「伊達治家記録」によれば、「米沢城」と「舘山城」の2つの城が明確に書き分けられ、別々の城として同時の存在していたことがわかる。また伊達氏の居城を示す「御城」が山の上にあったとする記事があるが、平地にある現在の米沢城周辺では該当する地形が存在しないなどから、伊達氏の居城がこの舘山城ではないかとする説が出てきている。
 しかし、伊達氏の居城周辺に見られる地名が米沢城周辺にあることや、近年の発掘調査では舘山城を伊達氏の居城とする有力な証拠がないため、現時点では米沢城を伊達氏の居城とするのが妥当とされている。

 山城跡の東端には1920(大正9)年に館山水力発電所が建設され、現在も東北電力の管理で現役稼動し、同施設は近代産業遺産の指定を受けている。また城跡は2016年に国の史跡に指定された。

国道121号にある舘山城入口

館山水力発電所。館山の高低差を利用して発電している。

「私有地に付 立入り大歓迎」の看板

舘山城東館にはたくさんの井戸が発掘され、屋敷跡だったと推定されます。

こちらにも井戸。

この東館にはかつて街道が通っていて、ここに橋が架けられていたそうです。

ここからが山城への登城路となります。

入口には杖の貸出場所があります。

こちらは給水所となっています。

大体10分程度の上り坂となります。この日は今にも雨が降りそうな天気でした。いったん雨が降り始めると道がぬかるんで滑る危険性がありましたので慎重にかつ足早で進みました。

つづら折りの急な坂が連続します。写真ではわかりませんが、所々急傾斜や道幅が狭い箇所があります。城が機能していた時代にはこの登城路も道幅もそれなりに広かったものと考えられますが、現在は風化によって狭まっています。

10分程度の坂を上って曲輪Iに到着。こちらは石垣の跡。

もう少し進むと、最大の遺構である桝形虎口が見えてきます。

発掘された桝形虎口。あちこちで城を使えなくするための破城痕跡が見られます。

桝形虎口。大量の川原石と石垣の跡が見えます。この大量の川原石は、石垣を積み上げるときに使った栗石(裏込め石)で、石垣が壊されたときに、石垣の裏に充填されていた栗石が崩れたとみられます。

桝形虎口
L字状の土塁で曲輪II方向からの直線的な敵の侵入を防ぐ防御施設です。桝形には内桝形と外桝形があり、ここの桝形は内桝形です。発掘調査をする前は、川原石で埋め尽くされていました。

石垣
ノミで平らに粗加工した割石を用いる慶長年間(1598~1615年)後半から元和年間(1615~1624年)頃の石積み技術で作られた江戸時代初期の石垣です。発掘調査で見つかった石垣は、普請の記録が無い上杉氏の関与を示す大きな発見でした。

竪堀(たてぼり)
竪堀は、斜面に設けられた空堀で横方向の移動を規制し、堀底に敵を集めて撃退する効果があります。発掘調査の結果から、戦国期には曲輪I・IIの堀切と繋がっていたとみられます。

腰曲輪
腰曲輪とは、斜面に設けられた小規模な曲輪で、斜面の防御を目的にしています。曲輪Iの東端部に位置し、発掘調査でこの段差は城が使われていた当時からあったことを確認しています。

腰曲輪からの眺め。麓から見えた館山発電所の頂上部で、ここから麓まで水を落として発電します。

曲輪I・II間堀切
堀切は、尾根や台地を切断するように設けられた空堀。

曲輪II
中央の曲輪で、平場の規模は東西約60m、南北約70mです。北西側に虎口、西側に高さ約5mの巨大な土塁があります。戦国期には主郭(本丸)があった可能性があります。

曲輪II西側土塁
土塁は、土を土手状に高く積み上げた防御施設です。西側の堀切を掘削した土を利用したと考えられます。高さ約70m、高さ約5mの巨大な土塁で、鉄砲に対する防御性を高めた戦国期後半以降の特徴がみられます。土塁南側の天端には1819(文政2)年8月の銘が刻まれた弁財天の石碑が建っています。

曲輪II北西虎口
城や曲輪の出入口を虎口と呼びます。ここは曲輪II北西側の出入口で、西側に巨大な土塁、東側に細長いL字状の土塁を配置しています。

帯曲輪
帯曲輪は、主要な曲輪の外周に配置される幅の狭い曲輪です。主に山城の北側斜面に配置され、発掘調査で土塁が設けられていることを確認しましたが、大部分が埋もれてその痕跡が確認できない場所があります。この土塁は石垣と同時期に普請されたものとみられます。

曲輪II・III間の堀切

曲輪II・III間の堀切。現在は堀跡の一部を東北電力の水路が通っています。

土橋
曲輪III西側堀切が一部掘り残されている部分があります。ここは土橋となって曲輪IIIへの通路して機能していたと考えられます。ここより西側の地には、かつて寺院(舘山寺)があったという伝承が残っています。

曲輪III
西側の曲輪で、平場の規模は東西約17m、南北約56mと他の曲輪より小さくなっています。西側に土塁と巨大な堀切があり、この堀切までが山城の範囲と考えられます。平場の南側には塚があります。

物見台
城の南西に位置し、山城内で最も標高の高い場所にあります。頂上は平らで、平場の周囲が整形されており、物見台が置かれていた可能性があります。この他、江戸時代の祠(山の神)が建っています。

物見台の先は巨大な堀切となっていて、城の範囲はここまでと考えられています。

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