天童藩は、織田信長の次男信雄を祖とする。信雄は1615(元和元)年大和国大宇陀郡及び上野国甘楽郡、多胡郡、碓氷郡の計5万石を与えられた。その子信良は、甘楽郡の小幡に居館を移し小幡藩ができた。その後、7代に亙り小藩であるにもかかわらず準国持格として、幕府の特別待遇を受けていた。 ところが、信邦の代に起こった山県大弐による明和事件の手落ちをとがめられ、1768(明和4)年出羽国高畠に転封、家格も引下げられた。高畠藩(織田家)は3代続くが、信美の代の天保2年には所領である天童に陣屋を移し、天童藩(織田家)が成立するに至った。天童藩は幕末まで信美-信学-信敏の3代約40年続いたが、2万石という小藩であり財政は窮乏を極め、下級藩士の内職として奨励した将棋駒つくりは、現在天童市の特産品となって受け継がれている。 1868(慶応4)年鳥羽伏見の戦いを口火に全国に及んだ戊辰戦争の中で、天童藩は、奥羽鎮撫使先導を命ぜられ、その役目を果たした。しかし、この戦いで天童藩は、庄内軍の攻勢により閏4月4日、天童・織田居館など天童城下の大半(233戸)を焼失した。 天童陣屋絵図から、現在の田鶴町一帯に当時の面影を設定できるが、居館跡は、明治34年に開通した鉄道(奥羽線)の敷地となった。 (天童・織田館北郭発掘調査概要(天童市教育委員会発行(1989年)) |
現地案内板 |
御殿跡入口 |
御殿のあった場所は現在公園となっています。 |
また御殿のあった敷地は奥羽本線の線路で分断されている。 |
今も陣屋跡に残る喜太郎稲荷神社。 |
現地案内板 喜太郎稲荷神社由来 御祭神 稲倉魂神(いなくらみたまのかみ) 天平神護二年(七六六)和気清麿の三男仲安神社を創立、その末子喜太郎山城国伏見稲荷より御位を請して奉安、これより喜太郎稲荷神社と称したと伝えられている。 南北朝時代舞鶴山頂に城をかまえた天童氏がその祈願所として御朱印を献じ厚く信仰したという。 時代はくだって天保元年(一八三○)この地に城池を築いた織田家が氏神として御陣屋に奉祀したのが当田鶴町の喜太郎稲荷神社である。 昭和五十七年 喜太郎稲荷神社氏子(神社説明板より) |
調武館・稽古所跡 |
現地案内板 天童織田藩 調武館・稽古所跡 織田信長の後裔信美(のぶみ・のぶかず)は、天保元年(一八三〇)に御陣屋を高畠から天童に移した。 この場所は御陣屋大手門の所にあたり、当時、北辰一刀流道場「調武館(ちょうぶかん)」と稽古所が置かれ、藩士が武術に励んだ。 その後、明治期に入り、この辺り一帯は田鶴町となって、この地に戸町(こちょう)役場が置かれ、天童町政の中核となったが、今も“元役場”の名残がある。 昭和六十三年十月 天童市教育委員会 |
前述した通り、宅地化が進んだ上に奥羽本線が陣屋中央を貫通してしまったため、目立った遺構がありませんが、痕跡らしきものを探してブラブラしてみました。 まずは、大手門跡。 (2022年4月9日(土)撮影) |
本丸御殿方向を撮影。 (2022年4月9日(土)撮影) |
郭北児童遊園 (2022年4月9日(土)撮影) |
本丸御殿の南西端に位置すると考えられます。 (2022年4月9日(土)撮影) |
陣屋の西端に位置する天童南部小学校。 (2022年4月9日(土)撮影) |