砥石城(長野県上田市)

◆2011年7月16日(土)撮影
 砥石(といし)城とも戸石城とも呼ばれるが、どちらも正しい呼び名とされる。また隣接する米山(こめやま)城は支城としての位置づけと思われる。
 築城年代は不明だが、隣接する真田郷に興った真田氏の外城として築城されたのが最初とされている(当時の状況は不明)。武田信玄の父である信虎は、諏訪頼重、村上義清らとともに真田氏の本家筋である佐久の海野棟綱を攻め、1541(天文10)年に海野氏は上州に落ち延びる。海野氏の一族であった真田氏も追われて、武田氏に身を寄せることとなった。砥石城は村上義清の領有となり、小県郡・佐久郡方面の重要拠点として大改築した(砥石城は、元々南側の出城の名前であったものが、いつしか城全体の呼称になったとも言われている)。

 武田晴信(信玄)の時代、佐久郡から北信濃への進出を狙うようになり、村上義清との間で激しい攻防が繰り広げられた。特に1549(天文19)年の武田軍の一方的とも言える敗退は「戸石崩れ(砥石崩れ)」と呼ばれる。この時の状況については「妙法寺記」に、「この年の9月1日に信州砥石の要害を御除け候とて、横田備中守をはじめとして、随分衆千人計り討死なられ候。されども御大将は、よく引きたまわり候」と記されている。この敗戦により力攻めを諦めた武田氏は、家臣真田幸隆に攻略を命じ、『高白斎記』によれば調略によって城内に内通者を出し、1551(天文20)年5月にわずか1日でほぼ無血で陥落させる。

 同城は真田氏に与えられて真田氏の居城(一説には真田氏本城)となる。ちなみに、村上氏は本拠地である埴科郡が武田勢の直接的な脅威にさらされることになり、以後は退勢を挽回できずに配下の諸豪族の離反を招き、1553(天文22)年に越後の上杉謙信を頼って落ち延びる。このことによって、武田信玄と上杉謙信とが直接領土を接することとなり、その後5回にわたる川中島合戦の大きな原因となる。村上氏滅亡後は、主戦場が北部の川中島方面に移り、また1583(天正13)年に新たに上田城を築城して居城が移ったため、歴史に登場するのは1583(天正13)年の真田氏と徳川氏の戦いである第一次上田合戦において、支城として利用された時ぐらいとなる。

 1622(元和8)年、真田信之が松代城に転封の際に砥石城は廃城となった。
 前回の2010年は準備不足もあって、米山城だけとなってしまいましたが、今回は充分な準備を整えての再挑戦。目標は砥石城跡、本城跡および桝形城跡。今回も「伊勢山ルート」での登山を試み、現在地より桝形城跡まで往復1時間30分の行程で目標を達成しました。一番の難所は砥石城跡手前の急峻な岩場で、ここを除くと比較的平坦な道です。ちなみにこの日の最高気温は34.9℃で猛暑日一歩手前の暑さでした(笑)。


(現地案内板より)

前回同様、門のお出迎え。

しばらくは上り坂が続きますが、砥石城に向かうにつれて傾斜がきつくなり、階段となります。

階段を上ると急遽、岩丸出しの急斜面となり、馴れないと上り下りがとても大変です。
砥石城跡

現地案内板。この砥石城はいくつもの城(要害)が合わさってできた城で、砥石城、本城、桝形城、そして米山城に分かれる。

砥石城(1)

砥石城(2)

砥石城からの眺め。上田市街(南東方向)で、真ん中を横切る緑の帯は千曲川。

切岸。
切り立った険しい崖を切岸というが、戦国時代の城郭では敵の侵入を防ぐために人工の切岸も作られた。この切岸も、人手が加えられたと見られる急崖で、下の堀切とセットになっており、伊勢山方面からの道を押さえている。元来は、はしごを掛けて登降していたものとみられる。(現地案内板より)

大手口。
砥石城へは、周囲の畑山・伊勢山・金剛寺の三方向から登れるが、この伊勢山からの道が大手(正面)口と考えられている。登路途中右手の山腹には湧水があり、砥石城の「水の手」と伝えられ、また段郭(削平地)も数多く配置されている。(現地案内板より)

大手口近くにある石垣跡。
石垣跡の上に本城跡があります。
本城跡
砥石・本城・桝形と連なる三要害(砦)からなる砥石城の中心である。南から北へと段上りの数段の削平した郭からなっており、最上部が本郭である。山上としてはかなり広い郭群であり、館もあったのでは、と推定されている。なお、一般に「本城」とは、江戸時代の本丸に当たる。(現地案内板より)

本城跡。

本城跡わきにある空堀跡。

矢竹。
矢竹は節が低く節間もまっすぐなところから矢(矢柄)に用いられ、自然に生えるだけではなく栽培もされる。この辺一帯に茂っている矢竹も、砥石城内に植えられていたものの名残ではないか、とみられている。ここに限らず、中世の城跡や館跡に矢竹が生えている例は多い。(現地案内板より)
桝形城跡
砥石城の北側の要害(砦)。入口が折れ曲がっており、桝形状になっているところから、この名がおこったものとみられる。なお、ここが砥石城の最高地点であることから、ここが「本城」とされていた時期もあった。真田氏の本拠、真田町の本原・長方面が一望に見渡せる。

桝形城跡からの眺め。北方面には真田氏の本拠地である真田町が一望できる。写真中央は上田城築城前に真田氏の居城であった真田氏館跡。

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