徳丹城跡(岩手県紫波郡矢巾町)

◆2012年4月14日(土)、21日(土)撮影
 徳丹城は、現在の岩手県紫波郡矢巾町徳田にある古代律令国家が建設した最後の城柵で、1969(昭和44)年8月5日、国の史跡に指定された。
 7世紀〜9世紀にかけて、日本全国を律令国家である大和朝廷の統治下に治めるべく、蝦夷(えみし)との戦いの拠点として東北地方各地に「城柵」が設置された。この地域には803(延暦22)年に征夷大将軍坂上田村麻呂によって築城された志波城が統治の中心としてなっていたが、暴れ川として知られる雫石川に近いことが災いして洪水が頻発。811(弘仁2)年に征夷大将軍文室綿麻呂によって南に10kmほど離れたところに徳丹城が建設され、主要な機能が移された。

 徳丹城の特徴としては、従来の志波城に比べて城郭の規模は縮小され、泥土をつき固めて作った塀が北側にしかないなどの簡略化があげられる。さらに、同時期に築城した志波城が、河川を城内に直接引き込んでいるのに対し、徳丹城は、約400mの運河によって北上川とつなげたことも特徴としてあげられる。これは、志波城が雫石川の氾濫に悩まされ、ついには移転を余儀なくされた辛い経験を取り入れたものと考えられる。

 815(弘仁6)年には配置されていた500人の鎮兵が廃止され、正規軍が配置されなくなる。しかし、9世紀中頃(830〜840年頃)まで使用された痕跡があることが考古学的に明らかになっているため、律令国家に協力的な俘囚の軍が配置されていたと考えられている。この城の廃城の原因は、この時期が律令国家の対蝦夷強硬政策の転換時期と一致しているため、軍事的役割の低下によるものと考えられている。

 現在の城跡は、真ん中を国道4号線が南北に貫通し、北東部を徳田小学校、南部には徳田神社、西部が「西辺柵跡公園」があり、発掘調査により、政庁跡や櫓跡などが発掘されている。

徳丹城全体図(現地案内板より)

徳丹城の鳥瞰予想図
(現地案内図より)

徳丹城跡の石碑

(現地案内板より)

城跡を南北に貫く国道4号線。

南西方向には矢巾町歴史民俗資料館が隣接しています。

徳田小学校の南に隣接する政庁跡。盛土と柱で平面復元されていた。

西方向にある櫓跡。こちらも盛土で平面復元されていた。

城跡の西側に整備されている「西辺柵跡公園」。

徳丹城の正面にあたる南門跡には現在、徳田神社が建っています。(2012年4月21日(土)撮影)

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