鶴ヶ岡城(山形県鶴岡市)

◆2020年7月5日(日)撮影
 鶴ヶ岡城は古くは大宝寺城とよばれ鎌倉期以来戦国期まで庄内に君臨した武藤氏の居城であった。
 天文年間(1533年頃)兵火のため武藤氏は大山の尾浦城に居を移し当城はその枝城となった。
 天文15年(1587年)武藤氏が滅び庄内は越後の上杉氏次いで慶長6年山形の最上義光のしはいするところとなる。
 慶長8年(1603年)大宝寺城は義光の隠居城として修復され鶴ヶ岡城と改称する。
 元和8年(1622年)最上氏が所領没収となり、その後信州松本より酒井忠勝が入国、庄内14万石(幕末17万石)の居城として整備拡張された。
 酒井氏は徳川幕府の譜代大名として明治4年まで約250年間庄内を治める。戊辰戦争において新政府軍と戦い降伏。
 明治8年(1875年)鶴ヶ岡城解体。本丸、二の丸が公園となり本丸跡に荘内神社が建てられた。
 今では公園のお堀と土塁、お城稲荷の森に、僅かに当時の面影が偲ばれるにすぎない。
(現地案内板より)

現地案内板

本丸跡地にある荘内神社で、廃城後の明治時代の創建。

荘内神社敷地内にある宝物殿です。

武具や民芸品が展示されています。

幕末に各藩や幕府軍で使用されたゲベール銃。

二ノ丸東北隅にある御城稲荷神社で、1708(宝永5)年に城内鎮守として創建された。明治維新後の廃城による取り壊しの際はこの神社だけは取り壊しを免れ、現在に至っています。

二の丸跡

二ノ丸北側にある堀(1)

二ノ丸北側にある堀(2)

二ノ丸には土塁跡が部分的に残されています。

本丸北西隅にある実質的な天守であった本丸御隅櫓跡。

二ノ丸から本丸御隅櫓跡を眺める。

本丸御隅櫓跡想像図

二ノ丸西側にある堀(1)

二ノ丸西側にある堀(2)
中央に見える高い建物は、致道博物館内にある旧西田川郡役所。

本丸南西側にある堀(1)
左側の建物は荘内神社。

本丸南西側にある堀(2)

二ノ丸西門跡

城南西側には致道博物館が隣接しています。

二ノ丸の堀があった城南側は埋め立てられて県道になっています。

城南西部には百間堀の一部が残されています。左の建物は慶應義塾大学先端生命科学研究所。

城南東側の百間堀にあった土塁が一部残されています。

一部石垣となっていますが、当時のものかどうかは不明。

城南東側にある藩校「致道館」。かつての三ノ丸にあります。

城内にある「明治天皇御駐輦之地碑(めいじてんのうごちゅうれんのちひ)」。「駐輦」とは「天子が車をとめる。天子がご滞在になる」と意味。

城内にある「鶴岡護國神社」。1895(明治28)年の創建。

護國神社内にある「石原莞爾生誕の地」の碑。戦前に活躍した陸軍軍人で、「帝国陸軍の異端児」と称された。

本丸中門跡に立つ大寶館。

現地案内板

「東宮殿下台臨之處 伯爵酒井忠良謹書」の碑。東宮殿下とはのちの昭和天皇のこと。

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