米沢城(山形県米沢市)

◆2008年9月14日(日)、2017年6月25日(日)撮影
鎌倉・室町・安土桃山時代
 米沢城が最初に築かれたのは、鎌倉時代中期の1238(暦仁元)年と伝えられる。鎌倉幕府の重臣・大江広元の次男・長井時広が出羽国置賜郡長井郷の地頭として赴任した際に築城されたと推定されているが、これを実証する史料や遺構は確認されていない。時広は赴任地の地名から長井姓を名乗った。以後、長井氏の支配が150年近く続いた。
 8代広房は室町時代初期(1380(天授6)年、1403(応永9)年、1413(応永20)年などの説がある。)に、伊達宗遠に侵略されこの地を追われた。以後、安土桃山時代までここは伊達氏の支配下に入った。1548(天文17)年伊達稙宗・晴宗父子の対立である天文の乱を経て、晴宗は本拠地を桑折西山城より米沢城に移した。米沢に城下町が成立したのは伊達時代と考えられる。
 1589(天正17)年政宗は蘆名義広を破り、蘆名氏を滅亡させると黒川城に本拠を移し、晴宗の弟にあたる宗澄ついで宗清を城代に据えた。しかし、豊臣秀吉はこの会津攻略を認めず政宗から召し上げたため、翌年には本拠を米沢に戻すことになる。1591(天正19)年政宗は豊臣秀吉の命により岩出山城に移った。
 置賜郡は伊達氏代わって会津に封ぜられた蒲生氏郷の支配するところとなり、重臣・蒲生郷安が米沢城主となった。郷安はこの時、城の改修を行っている。文禄年中に白子神社が米沢城鎮守となる。1597(慶長2)年氏郷の子、秀行は下野国宇都宮に移封となり、会津には越後国より120万石で上杉景勝が入封し、米沢城主には重臣・直江兼続を置いた。
江戸時代
 1600(慶長5)年秀吉の死後、豊臣氏への恩義から徳川家康の専横を「直江状」という文書によって弾劾し徳川氏への宣戦布告に及んだ。結果的に西軍方となった上杉氏は、関ヶ原の戦いには参戦していないが西軍の敗戦により、置賜地方と陸奥国伊達郡・信夫郡30万石に減封された。以後、明治維新まで米沢藩上杉氏の居城となった。
 1608(慶長13)年景勝は兼続に命じ城の大改修を行い、1613(慶長18)年輪郭式の縄張りを持つ城が完成した。本丸の内部は享和2年の「松岬城揲図」が詳しく、本丸中央部に藩主の住居が建ち、東南隅の堤上に上杉謙信の祀る御堂を建て、天守の代わりに東北と西北に三層の隅櫓を2基置いた。二の丸には藩の役所、世子御殿、御堂に近侍する法音寺・大乗寺など御堂に交替で勤仕する真言宗の二一ヶ寺を置いたのが特色である。三の丸には上級・中級家臣の屋敷で占められ、町人町は郭外に置かれた町家郭外形の典型的な城下町プランに属する。石垣は少なく、土塁を多用し、全体的に質素な城となった。これは120万石時代の家臣をほとんど削減しなかったため、財政が逼迫していたことによるものとされるが、上杉景勝が会津で建設を目指していた神指城も米沢城と同様の縄張で、土塁を多用した造りである。これは春日山城の麓にあった関東管領邸である御館にも共通した特徴であり、上杉氏の本拠地としての伝統的な城館建築の造りである。
 大勢の家臣団はなお城下に収まりきれず、城下近郊の原野であった東原・南原に配され、下級家臣の侍町「原方」が形成されたのも米沢藩の特色である。
 1664(寛文4)年3代綱勝が嗣子を定めないまま急死し、綱憲が末期養子として認められ藩は存続したが石高は15万石に半減された。しかし、石高が減ったのに、藩士の召し放ち(解雇)が行われず、藩の財政は更に逼迫することとなった。城外には新たに原方と呼ばれる地域を設置し、城下に収容できない下級藩士を配置し、半農生活を営ませた。しかし、9代治憲の藩政改革で財政の再建を果たした。なお治憲の隠居所である餐霞館は三の丸にあるが、これは支候御殿を転用したもので、治憲死去後に支候御殿に戻る。
 戊辰戦争では、藩が改易される窮地を救った会津藩主保科正之への恩義もあることから奥羽越列藩同盟に加わった。
近現代
 1871(明治4)年廃藩置県により米沢県が置かれた。1872(明治5)年最後の藩主・斉憲は、城内にあった謙信の霊屋(御堂)を鷹山とともに合祀し上杉神社とした。1873(明治6)年には城の建物が全て破却された。二の丸にあった藩の政庁はそのまま郡役所、町役場(後に市役所)として利用した。
 1874(明治7)年には城跡は松が岬公園として市民に一般開放された。1876(明治9)年、謙信霊柩は上杉家廟所へ、上杉神社を現在の地である本丸跡に移した。1896(明治29)年二の丸跡に上杉家14代当主・茂憲伯爵邸が建てられた。1902(明治35)年上杉神社が別格官幣社となったのを期に、鷹山を摂社・松岬神社(本丸の東隣、世子御殿跡)に分祀した。
 1919(大正8)年米沢市内は米沢大火に見舞われ、上杉神社・伯爵邸にも類焼した。現在の神社社殿は1923(大正12)年に再建されたものであり、伯爵邸も1925(大正14)年に再建され鶴鳴館(かくめいかん)と呼ばれた。1950(昭和25)年伯爵邸が上杉家から米沢市に譲渡され、翌年より中央公民館として利用された。1979(昭和54)年公民館から上杉記念館に改変され郷土料理の提供や資料の展示が行われている。1997(平成9)年伯爵邸は登録有形文化財となった。
引用元:Wikipedia

藩政時代の米沢城下絵図
(2017年6月25日(日)撮影)

現在の松岬公園。本丸と二の丸の一部が残されています。
(2017年6月25日(日)撮影)

本丸の堀

本丸内にある上杉神社への入り口

本丸の堀の鯉

上杉謙信祠堂跡『御堂(みどう)』
藩政時代、越後より運ばれた謙信公の遺骸はここに安置されました。明治時代の廃城令にともない、北西1.5kmほど離れた上杉家廟所へ移されました。 

招魂碑。戊辰戦争および西南戦争の米沢藩犠牲者を慰霊するためのもの。

米沢藩中興の祖として知られる9代上杉鷹山(治憲)公像。

本丸にある上杉神社。

神社内庭園(1)

神社内庭園(2)

本殿

13代上杉曦山(斉憲)公の碑

上杉謙信像

二の丸跡に建てられている米沢市上杉博物館
(2017年6月25日(日)撮影)

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