◆ブランデンブルク門(Brandenburger Tor)◆

 ブランデンブルク門は、ドイツ・ベルリンのシンボルとされている門である。正面部はパリ広場の東に面しており、ミッテ区に属している。高さは26m、幅は65.5m、奥行きは11mの、砂岩でできた古典主義様式の門である。
ブランデンブルク門はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により建築家カール・ゴットハルト・ラングハンスによって古代ギリシャ風で設計され、1788年から3年間の建設工事を経て1791年8月6日に竣工している。
 もとは平和の勝利を記念する「平和門」としての位置づけであったが、完成直後にナポレオン・ボナパルトによりベルリンは征服されブランデンブルク門はナポレオンのパレードの舞台と化し、ヴィクトリア像はフランスへ戦利品として持ち去られた。その後のナポレオン戦争によりプロイセン軍がパリを占領すると、ヴィクトリア像は再度ベルリンに持ち帰られ門の上に戻された。門は戦勝と凱旋のシンボルとなり、門のあるカレ広場(四角形広場の意)はパリ広場に改名され、ヴィクトリアの持つ杖には勝利を記念して鉄十字紋章が取り付けられた。門の前は列強の大使館やホテル・アドロンなどの壮麗な建築群が並ぶベルリンの中心地のひとつとなった。
 ブランデンブルク門は第二次世界大戦末期のベルリン市街戦で損傷し廃墟となった。第二次世界大戦後は東ベルリンと西ベルリンとの境界線が門のすぐ西側に引かれ、門は東ベルリン側になった。門は1957年に東ベルリンにより修復されたものの、ヴィクトリアの持つ杖の先は、社会主義国らしくなるよう平和の象徴であるオリーブの枝に変えられた。それでも門を通っての東西ベルリンの往来は活発だったものの、1961年に東ドイツが国民流出を防ぐためベルリンの境界線を封鎖し、後に「ベルリンの壁」と呼ばれる壁を建設すると、門の前を壁が通る形となったため、門は東ベルリン西端の行き止まりとなり通行できなくなった。門の前にあった廃墟はすべて撤去されて何一つ建物のない無人地帯となった。
 1989年にベルリンの壁が崩壊し、再び門の下を通行できるようになった。ヴィクトリアの持つ杖の先は再び鉄十字に戻り、門は2000年12月から巨額の資金をかけて清掃と改修工事が行われた。周囲では1990年代から2000年代にかけてホテルや大使館などの再建が進み、門はベルリンを代表する観光地となっている。また、ドイツ東西の分離と統合のシンボルとしてドイツのユーロ硬貨の裏面に彫られている。
Wikipediaより)

ブランデンブルク門の上にあるヴィクトリア像。ナポレオンによってパリに持ち去られたり、戦後には共産主義国家である東ドイツによってヴィクトリアの持つ杖の先が鉄十字からオリーブに変えられたりと、数奇な運命に翻弄されました。

ブランデンブルク門前にあるパリ広場。右手にはホテルアドロンが建っています。
 ホテルアドロンは、ブランデンブルク門のすぐ東側に建つ1907年10月創業のヨーロッパを代表する高級ホテルで、ドイツの迎賓館的な役割を果たしたホテルである。アドロンの名は創業者であるマインツ出身のワイン豪商、ローレンツ・アドロン(Lorenz Adlon)に由来する。彼は時の皇帝ヴィルヘルム2世に、当時ヨーロッパの中心都市であったパリやロンドンにあった高級ホテルに負けないホテルの必要性を説き、ヴィルヘルム2世の庇護を受け、自分の名前を冠したホテルを開業させた。
 1920年代のベルリンは絶頂期であり、エディソン、チャップリン、ヘンリー・フォード、ルーズベルト、アインシュタインなどの著名人や政治家が宿泊した。日本人では
1941(昭和16)年3月に日独伊三国同盟慶祝のためにドイツを訪問した松岡洋右外務大臣がいる。
 第二次世界大戦末期のベルリンの戦いのさなかの1945年5月2日の夜、泥酔したロシア兵の煙草の不始末が原因で地下のワイン庫から出火し、建物は焼失した。
 戦後のドイツ東西分断時代には残った建物で営業は再開されたが1970年代には閉鎖され、1984年3月10日には残された建物も取り壊され、更地になった。
 そして、1990年のドイツ再統一後に再建の機運が高まり、1997年8月に先代の建物のあった同じ場所に新しく再建され、ケンピンスキーグループの「ホテル アドロン ケンピンスキー」(Hotel Adlon Kempinski)として再営業を開始した。
Wikipediaより)

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