常磐炭鉱専用鉄道小野田線(暫定版)
◆2023年1月29日(日)撮影
 小野田線は湯本駅から東に分岐し、いわき市常盤上湯長谷までの全長2.94kmの路線。
 日本鉄道磐城線(現在のJR常磐線)の開業により、従来の小名浜港まで磐城炭鉱軌道を使っての石炭輸送し、貨物船に積み替えする方法代わって、直接常磐線に直接乗り入れをするための専用鉄道(軌間1,067mm)が敷設され、1897(明治30)年2月22日に開通したのである。石炭の一大消費地である京浜地区と直接線路でつながったことにより運送効率が飛躍的に上がり、磐城地区は一大石炭生産地として繁栄した。
 戦後は、後述するいわゆるエネルギー革命により石炭事業の採算が悪化し、1962(昭和37)年に小野田鉱山が閉山、小野田線も1969(昭和44)年12月1日に廃止された。

開設:1897(明治30)年2月22日
廃止:1969(昭和44)年12月1日

(参考サイト)
http://geo.d51498.com/sendaiairport/onoda/ond-1.htm
http://geo.d51498.com/sendaiairport/iwaki/tankou1.htm

(磐城炭鉱軌道について)
 上湯長谷村小野田(現在のいわき市小野田地区)は幕末の1860(安政7)年から石炭採掘がはじまった。しかし初期の輸送方法は、馬の背に乗せて小名浜港まで輸送する方法で輸送力には限界があった。
 そこで、日本鉄道磐城線(現在のJR常磐線)の開通より10年前の1887(明治20)年に上湯長谷村小野田(当時)から小名浜村古湊(当時)間の12.87km(軌間762mm)の馬車鉄道として開業。従来の輸送方法より効率は格段に向上した。
しかし、当時は終点である小名浜港で船への積み替えや、小名浜港が遠浅で大型船の入港ができず、人が海に浸かりながら荷を船に積む作業が必要となった。当時の状況が下記のとおり記されている。

「…磐城炭鉱軌道終点 小名浜港は距離70〜80mほどの海中桟橋になっていた。
山元よりトロ車で桟橋まで運ばれた石炭は「屈強なる男が海中に乳下まで没して艀(はしけ)まで一俵ずつ荷い50人一団が交代に一艘に百俵を積んで沖合碇泊の本船に移載した。」
海上輸送は三〇〇t積の磐城丸第一号、第二号が輸送したが、片道40日ほどを要した。

 このような効率の悪さに加え、天候悪化すると積み替え作業が停滞するため大量に安定して供給しにくいのが弱点であった。
 この状況を打開するのが、10年後に開業する常磐炭鉱専用鉄道小野田線である。

 常磐炭鉱専用鉄道小野田線開通後は、小野田坑〜湯本(停車場)間は石炭輸送から従業員輸送、石炭以外の物資輸送鉄道として1940(昭和15)年頃まで運行されたが、戦時中の資材不足から、軌道のレールを炭坑内のレールに転用するため順次廃止されたようです。湯本〜小名浜港間は旅客鉄道として運行されたが、前述の戦時中の資材不足やバスとの競合による採算悪化により1944(昭和19)年6月5日に廃止された。

(常磐炭について)
 常磐炭は、亜瀝青炭と褐炭が多く、北海道や九州の石炭と比べて品質はおちるいわゆる低品位炭であり、さらに地層が激しい褶曲を受けているため、石炭層を求めて地下へとひたすら掘り下げる、高い掘削技術を要する炭鉱であった。地下水が多く、温泉も湧き出すため坑内は暑く過酷な環境で、1tの石炭を採掘するのに4t程度の地下水が湧き出すともいわれ(常磐炭鉱記録映画による)当時世界最大級の排水ポンプを並べるなど採炭コストも高かった。しかし、大工業地帯である京浜地区に近いことから戦前より需要が高く大鉱業地帯として発達した。
 しかし、第二次世界大戦後の1960年代のいわゆる特にエネルギー革命と高度経済成長が起こると慢性的なコスト増で産出資源の競争力が失われた。更にマッチ用の燐、化学工業原料や火薬などの用途があった副産物の硫黄資源も、技術革新により石油の脱硫処理から硫黄がより容易に生産されるようになり、市場から駆逐された。各鉱は採算が次第に悪化。最後まで残った常磐炭礦(1970年より常磐興産)の所有する鉱山も1976年(昭和51)年に閉山し、常磐興産は炭鉱業自体も1985(昭和60)年に撤退した。
Wikipediaより)

「国土地理院の電子地形図25000を掲載(2023年)」
国土地理院発行地形図の引用について
http://www.gsi.go.jp/LAW/2930-meizi.html

「この地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図(平)(昭和32年発行)を使用したものである。」
国土地理院発行地形図の引用について
http://www.gsi.go.jp/LAW/2930-meizi.html
@湯本駅東側

右側が常磐線駅ホーム。左側は現在、駐車場になっていますが、かつての路線跡と石炭の積込施設があったと思われます。

この先路線跡が続きます。
A湯本陸前浜街道踏切

フェンス右側に路線跡らしき空き地が残っています。どうやら真ん中の道路が路線跡では無いようです。
B小和田線との分岐点

左が小和田線、右が日渡線の路線跡。

通り抜けできない理由は小和田線で説明。
C宝海隧道

先ほどの通り抜け不可となった理由はこれ。この先に隧道が見えます。この隧道がこの路線最大の遺構である宝海隧道。

湯本駅方面
この区間は未舗装路となります。

湯本駅側坑門
自動車の通り抜けは不可では無いようですが、崩落などの危険があるためかと思われます。
それにしても、上部には山が無いのに隧道にしたのが謎で、理由は不明です。

1897(明治30)年の完成当時はレンガ積みだったと思われますが、現在はコンクリートで固められています。

補強材である鋼材らしきものが見えます。

終点方面
さらに路線跡は続きます。

終点側坑門
D

湯本駅方面
自動車が通れないように柵が設けられています。

終点方面
E

湯本駅方面

終点方面
この付近で舗装道路となります。
F

湯本駅方面
右側が路線跡で湯本駅へ続きます。手前が道路に転用された路線跡。

終点方面
この先、路線跡は道路に転用されています。
G

湯本駅方面

終点方面
H長倉停留所
旧線との合流点

湯本駅方面

終点方面

この先は今回取り上げた小野田線の前身である磐城炭鉱軌道が伸び、三函(さばこ)隧道へ続くのですが、今回は時間の都合でここで終了。

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