(概要:森林鉄道・森林軌道について) 明治時代の後半、欧米列強の脅威から国を守るために富国強兵と殖産興業に邁進していた日本では、国産木材の需要が急速に高まった。しかし、古来から行われていた筏による木材の水上輸送は、常に商品である木材の紛失と水難事故の危険を伴うもので、計画的な物流が難しかった。そこで、森林鉄道の建設を目指す機運が全国で高まった。 日本の森林鉄道の歴史は、1909(明治42)年12月20日に開通した津軽森林鉄道に始まる。その後、長野県の木曽、高知県の魚梁瀬をはじめとして、全国各地の林産地帯に大小さまざまな森林鉄道が建設された。また、当時は日本の一部だった台湾にも、同様に阿里山森林鉄路などの森林鉄道が建設された。 軌間は殆どが762mmでいわゆるナローゲージである。営林署が中心となって762mmを標準とし、例外的に610mmを採用していた模様であり、かなり小規模な路線でも鉱山用軌道や構内軌道に見られる508mmの軌間は採用されていなかった。運材台車や機関車の互換性の他に木材移動時の転覆の防止もあったものと考えられる。 1960年代までの日本は国産材中心の時代であり、大量の木材が生産されていた。しかし伐採した木材を搬出する林道網が貧弱な上、トラックなどの性能が低かったこともあり、運搬手段として鉄道が一般的に利用されてきた。宮崎県では当時の国鉄の営業キロを上回る延長の森林鉄道が存在した。 1970年代になると、外国材の輸入が本格化して採算性が悪化したこと、資源の枯渇が進み鉄道で運び出すほど量の木材が生産できなくなったこと、自動車の発達と林道網の充実したことにより、またたく間に山から消えていった。1975年に、本州最後の森林鉄道が廃線し、歴史に幕を閉じた。 (wikipediaより) (歴史) 現在の岩手県雫石町はかつては林業が盛んで、雫石駅南側に貯木場が置かれ、そこを起点として現在の岩手県西和賀町(旧沢内村)まで森林軌道線が引かれ、切り出した木材の運搬が行われていました。路線名の正式名称が不明でしたので、便宜上「鶯宿森林軌道線」としておきました。廃止時期は不明ですが、昭和30年代と思われます。現在では路線跡はダム建設による水没や道路に転用されたりして目立った遺構はほとんど残っていません。 (参考)森林鉄道と森林軌道 森林鉄道の中には、森林軌道の名称を使用しているものがある。森林軌道も森林鉄道の一種であるが、正確に言えば、森林鉄道は大きく、1級線と2級線、作業軌道に区別されており、1級線が森林鉄道、2級線が森林軌道という。作業軌道に対し、1級線と2級線を土木軌道ともいう。 森林鉄道と森林軌道、作業軌道の違いは規格の違いにより、森林軌道規格の森林鉄道路線も存在する。当初は両者の区分は曖昧であったが、1953(昭和28)年に林野庁によって一定の規格が定められた。林野庁通達による区分は次の通りである。
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文献や情報が乏しく、主に国土地理院発行の旧版地形図が頼りの綱となりました。まだまだ未確認部分が多いですが、とりあえず暫定版としてアップしておきます。 |