◆沈船防波堤(福島県いわき市)◆
(2023年1月29日(日)撮影)

沈船防波堤の歴史
 小名浜港は、延享4年(1747)に江戸幕府の代官所が置かれ、磐城各藩の納付米を江戸に積み出したことにより、港の基礎が築かれました。本格的な整備は大正7年の漁港修築工事が始まりで、昭和2年には第2種重要港湾に指定され、昭和4年から昭和13年まで第1期港湾修築工事として港の整備が行われました。しかしながら、国の財政事情により計画の一部を縮小せざるを得ませんでした。さらに、昭和16年から第2期港湾修築工事に着手しましたが、戦争の混乱と財政の悪化により工事を中断したため、防波堤や防砂堤施設は不完全で風や波による災害が頻発しました。
 戦後の混乱期を迎え、食糧や物資輸送ルート確保のための港の整備が要求され、小名浜港においても、漁獲物を揚げる漁港の整備と石炭エネルギー輸送のための、第3期港湾修築工事が昭和21年から昭和28年まで行われました。
 当時の港の整備は、不完全だった防波堤や防砂堤を完成させるのが急務でしたが、財源が乏しくコンクリートや骨材などの建設資材も不足していたため、艦船を海底に沈めるという手法(沈船)による整備が計画されました。昭和23年4月1〜2日に、駆逐艦「澤風」が漁港市場前に、引き続き8月25日には、駆逐艦「汐風」が波浪及び漂砂対策として現在地に沈められたのです。昭和26年1月には、重要港湾の指定を受け、本格的な石炭輸送のための漁港整備が進められ、沈船(汐風)が岸壁の基礎として第2の役目を担うこととなり、昭和32年6月に待望の1号ふ頭が完了したのです。
 戦後日本の経済発展とともに、小名浜港は工業港として整備が進められ、取扱貨量も驚異的な伸びを見せました。しかし、近年になって船舶の大型化や港湾機能・流通機能の変化に加え、市民に親しまれるウォーターフロントとしての港の役割が求められるようになり、整備の転換が図られることとなりました。
 「沈船防波堤」となった駆逐艦「汐風」は、大正10年7月29日に舞鶴工廠で竣工して以来、戦後日本の再興そして高度成長を支える重要港湾の礎として、第2、第3の役割を果たしてくれました。
 ここに、これまでの小名浜港の発展に重要な役割を果たした、沈船防波堤の歴史を残すものとします。
(現地案内版より)

駆逐艦「汐風」が沈船されたころの小名浜港。

駆逐艦「汐風」が1号ふ頭の埋立岸壁として石炭輸送に活躍していた頃。

現在の状況。完全に埋没しています。

駆逐艦「汐風」舷外側面図。
駆逐艦「汐風」
峯風型駆逐艦2番艦として1920(大正9)年に竣工。

南側は駐車場として整備され、痕跡は残っていません。

北側は広場として整備され、敷石の色埋まっている汐風の位置がわかるようにしてるのが見えます。
駆逐艦「澤風」
峯風型駆逐艦8番艦として1921(大正10)年に竣工。

澤風は前述のとおり、現在は解体撤去されていてかつてあった位置を推定するのは難しいです。

ちょうど写真中央の位置でしょうか。

1965(昭和40)年に漁港区改良のため撤去された澤風ですが、タービンはいわきマリンタワーから100mほど離れた三崎公園内に保存・展示されています。

タービンと説明版と石碑と並んでいます。露天展示なので、あまり状態がいいとは言えません。

澤風のタービン。Wikipediaによればロ号艦本式缶4基パーソンズ式タービン2基2軸38,500馬力を備え、当時39ノットの高速度が出たといいます。

海軍にゆかりのある高松宮殿下御手植の松です。

澤風は1918(大正7)年に起工しているので、100年以上前に作られたものということになります。

案内板です。

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