◆角館町(秋田県)◆


 城下町としての角館は中世末期、戸沢盛安によって創建された。古城山に館を置き、その北側の山麓に城下町を築いた。しかし、戸沢氏が関ヶ原後の大名配置により戸沢氏は常陸へ(後に新庄へ)国替えとなり、秋田には佐竹義宣が入り、角館にはかつて会津の雄であった名族芦名義勝(佐竹義宣の弟)が佐竹氏より1万5千石を与えられ居住することになった。芦名義勝の代には、その地が不利のため改めて元和6年(1620)に古城山の南側に新城下町を建設。当時は徳川幕府の体制の基礎づくりの時期で、元和6年は一国一城令が出された年でもあり、新城下町の造成は急を要したと思われる。
 やがて芦名家は3代51年で断絶、明暦2年(1656)久保田城主佐竹氏一門の筆頭格の佐竹義隣(佐竹北家)が「所預り」として角館を支配した。以降、明治の廃藩に至るまで、北家は11代213年続くことになる。

武家屋敷通の町並み

青柳家邸。青柳家はもともと芦名氏譜代の侍だったが、断絶後、佐竹北家の組下となった家柄。代々の役職は納戸役を多く勤め、実禄は104石。高い格式を誇っていた。万延元年(1860)頃築。


石黒家邸。石黒家は、佐竹北家の用人を勤めた家柄。財用、勘定といった財政面の役職についていた。18世紀から19世紀の建築と推定される。

岩崎家邸。岩崎家は会津からの芦名氏譜代の家臣だが、芦名家断絶後は、佐竹北家の組下となった。

川原田家邸。川原田家は、戦国時代に芦名氏の譜代として会津から角館へ移って本家100石、分家50石を拝領した。芦名氏断絶後は佐竹北家の組下となる。現在の建物は明治中期に建てられたものだが、その間取りは武家住宅の形式を踏襲。

松本家邸。下級武士の屋敷で、門柱を2本建て、柴垣で囲んだ簡素な造り。杉皮葺きで置き石の屋根 は、町家にも多い形式。
小田野家邸。小田野家は、今宮氏配下から佐竹北家の家臣となった家柄。その分家が武家屋敷に今もある小田野家。明治33年の大火で小田野家は類焼しており、現在の家屋は火災後に建てられたもの。

紹介サイト
みちのくの小京都「角館の魅力」
(各写真の説明文はここから引用しました)

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