◆野辺地町(青森県)◆

青森県下北半島の基部陸奥湾の湾頭に位置する町である。気候はヤマセの影響を受け一年を通じて冷涼であり、冬は県内でも有数の豪雪地帯である。中世に南部氏の支配下となり野辺地は下北地方と津軽地方の分岐点として重要拠点の1つして一族である野辺地氏を配し周辺の中心的な役割として確立したと思われる。江戸時代に入ると盛岡藩に属し、交通の要衝だけでなく北前船の寄港地として上方や蝦夷地などの物資が運び込まれ盛岡藩の北の玄関口として経済的にも重要視された。
なお、野辺地は犬猿の仲である弘前藩との境にあるため、軍事的にも重要な拠点であり、実際、野辺地戦争と呼ばれる紛争などが起こっている。
人口は14,187人(推計人口、2010年8月1日)
戊辰戦争史跡(野辺地戦争戦死者墓所)
(2010年10月7日撮影)

この地で起こった「野辺地戦争」の弘前藩側戦死者27名を弔うために、弘前藩が建立したもの。現在は国道4号線旧道脇にある。

野辺地戦争(のへじせんそう、慶応4年9月23日(グレゴリオ暦1868年11月7日))は、会津戦争(戊辰戦争)の戦いの一つである。奥羽越列藩同盟側の盛岡藩は9月20日に新政府に降伏し、22日に新政府に降伏が受け入れられていた。だが翌23日、新政府側の弘前藩及び黒石藩の連合軍が野辺地へ侵攻。交戦の結果、盛岡・八戸藩連合軍が弘前・黒石藩連合軍を撃退して戦闘は1日で終了し、新政府からは両藩の私闘として処理された。 弘前藩はこのほかにも鹿角郡濁川にも放火のために出兵を行っており、本格的な侵攻ではなく、実績作りのための放火活動であると言われる。戦争と言われているが実際は小規模な局地戦であった。

道路上に「戊辰戦争史跡」の標識。

入口

墓石

案内板

戦況図
藩境塚
(2019年4月13日(土)撮影)
野辺地町は弘前藩と盛岡藩との境界に位置していて、この「藩境塚」は、江戸時代に弘前(津軽)領と盛岡(南部)領の境界の目印として、奥州街道沿いに設置された塚です。塚の底面直径は約10m、高さは約5mで、「二本又川(境の川)」を境に弘前(津軽)側と盛岡(南部)側に2基ずつ、合わせて4基があり、このことからこの地は「四ツ森」と呼ばれます。築造時期は不明です。

現在一帯は公園として整備され、国道4号側には駐車場と番所風のトイレが建てられています。また駐車場脇には藩外への持出禁止物品を記した家老名で出された「覚」と書かれた2枚の高札が復元されて建てられています。

国道4号の野辺地町と平内町との境にあります。

駐車場と番所風のトイレが整備されています。

藩外への持出禁止物品を記した家老名で出された「覚」と書かれた2枚の高札が復元されています。

藩境塚は駐車場より下った海沿いにあります。

塚が見えてきました。

左が弘前藩領、右が盛岡藩領で、中央の川が境界の二本又川(境の川)。奥に見えるのが下北半島。

周辺は公園として整備されていますが、川が用水路みたいになっているのはちょっと残念な気がします。

案内板


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