◆伊達市(福島県)◆

◆2012年3月24日(土)、2013年9月22日(日)撮影
 伊達市(だてし)は、福島県北部の市。2006(平成18)年1月1日、伊達郡の伊達町、梁川町、保原町、霊山町、月舘町が合併して誕生した。人口は62,786人 (推計人口、2013年10月1日)。
 福島県伊達郡の伊達町、保原町、梁川町、霊山町、月舘町が合併したが、市名はあくまで郡名に由来し、旧伊達町が中心となって合併したというわけではない。旧伊達町は元々は伊達郡長岡村と呼ばれており、東北本線開業時も長岡駅としていた。しかし、信越本線長岡駅との駅名の重複を避けるため、1924(大正13)年12月に郡名に由来して伊達駅と駅名を変更し、1940(昭和15)年に長岡村が町制を施行する際に、村内にあった伊達駅から町名をとった経緯がある。
 江戸時代の前期以前は伊達は「だて」ではなく「いだて」または「いだち」と読んだ。
 5世紀末、福島盆地も大和朝廷の支配下にはいり、大和朝廷勢力圏の北限として信夫国造が置かれた。
 源頼朝の奥州征伐の功で、関東武士で中村氏(伊那氏)が源頼朝から伊達郡を拝領したため、常陸国中村荘から分家して伊達郡に定住して伊達氏を名乗るようになった。これが奥州伊達氏の起こりである。
Wikipediaより抜粋)
旧福島交通飯坂東線伊達橋付近の遺構
 現在の飯坂線が「飯坂西線」と呼ばれた時代、国道4号を経由して福島〜長岡〜湯野を結んだ路線があり、「飯坂東線」と呼ばれました。さらに支線として保原線・梁川線・掛田線があり、総称で「飯坂東線」と呼ぶこともあります。「飯坂西線」が専用軌道だったのに対して、「飯坂東線」は路面電車でした。長らく福島市の市街電車であるのと同時に、都市間電気鉄道の意味合いも併せ持っていました。長らく住民の足として親しまれましたが、1960年代からのモータリゼーションの進行によって徐々に路線は縮小され、最後に残った飯坂東線も1971(昭和46)年に廃止されました。

 現在では、飯坂東線の遺構は路面電車であったという性格上、道路拡張などによってあまり残されていませんが、最大の遺構がこの伊達橋です。

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伊達橋の地図

左が車道専用、右が歩道専用となっていますが、かつては右の橋が初代伊達橋で、路面電車と自動車が走っていました。ちなみに左の橋は1966(昭和41)年の竣工。
案内板によれば、1921(大正10)年に竣工。トラスの部材は英国製で、形式は下路連続トラス橋、橋長263.31m、幅員2.5mの橋で、土木学会の歴史的な鋼橋(「鉄の橋百選」)の一つに挙げられているそうです。

右側に線路が敷かれていました。幅員が2.5mなので、路面電車と自動車がすれ違うのは無理だったことがわかりますが、自動車の少なかった時代はそれほど問題がなかったと思います。

「昭和54年」の名がありますが、これは軌道撤去などを行って改築された年を示しています。

リベット打ちが時代を感じさせます。

案内板が設置されていました。

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保原方向。

こちらはJR伊達駅方向で中央が路線跡。
実はこの先にとある遺構が残されていますので行ってみました。

ポールが立っている陸橋が路線跡。

よく見ると変わった形の鉄柱が見えます。

この鉄柱は実は路面電車の架線柱です。
当時の写真を見ると左右対称の作りで、現在は左半分のみが残されています。

さびが年代を感じさせます。

廃レールを使った作りです。

ここで国道4号線とオーバーパスします。
現在は歩道橋がかかっていて、この先はかつて飯坂東線の駅があったJR伊達駅があります。
旧伊達郡役所(阿武隈急行線保原駅舎)
 1988(昭和63)年開業と同時に、かつての旧伊達郡役所を模して建てられた阿武隈急行線保原駅舎。実際の旧伊達郡役所は隣の桑折町に現存している。
(2012年3月24日(土)撮影)

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