◆えりも町(北海道)◆

えりも町(えりもちょう)は、北海道南部、日高振興局管内にある町。1町で幌泉郡をなしている。北海道主部における最南端である襟裳岬がある。町名の由来は、アイヌ語で「エンルム」(岬の意)。人口4,881人(住民基本台帳人口、2017年3月31日)
wikipediaより)

2017年5月5日(金)撮影
襟裳岬(えりもみさき)
 北海道の背骨といわれる日高山脈の南端に位置する。この地点では日高山脈は次第に標高を下げ、海に落ち込んでいき、海面下7kmにわたって岩礁群が伸びている。岬の周囲は高さ約60mの断崖になっている。
 風の強い場所としても有名で、風速10mを超える日が年間288.85日ある。これは沖合で暖流である黒潮(日本海流)と寒流である親潮(千島海流)とがぶつかるためであり、またこのため、濃霧が発生しやすい。
 強風、濃霧そして岩礁のため、海の難所として知られ、岬には1929(昭和4)年4月22日に暗礁に乗り上げて座礁沈没した豊国丸殉難者追悼碑が建立されている。
 襟裳岬の歌碑は二つあり、一つは島倉千代子の曲(1961年)のもので1971年に建立。もう一つが森進一の曲(1974年)のもので、1997年に建立されたものである。
 襟裳岬は明治時代中期以降、上の材料として広葉樹が乱伐され、砂漠化してしまう。このため土砂が海に流れ込んで水質が悪化し、岩礁にコンブが生えなくなり、鮭や回遊魚も来なくなった。
 このため、1953(昭和28)年以降、植林を目的とした治山事業を開始し、現在では緑化が進んでいる。
 かつて突端には襟裳神社があったが、今はえりも岬地区市街地にあり、現在は木製の鳥居がのこされている。
 襟裳岬灯台は標高73mにある灯台で、1889(明治22)年6月25日に北海道で7番目の灯台(鉄造)として点灯。第二次世界大戦中の1945(昭和20)年7月15日には爆撃で破壊され、1950(昭和25)年2月3日に現在の鉄筋コンクリート造に改築された。また2005(平成17)年4月1日からは無人灯台となった。

この日が天候に恵まれました。国道で浦河町方向から移動中に撮影。突端が襟裳岬。

航空自衛隊襟裳分屯基地。航空自衛隊三沢基地の分屯基地である。

襟裳岬のお土産販売所。

襟裳岬の突端へ行きます。

突端の反対方向を撮影。右に見える山は豊似岳(とよにだけ、標高1,105m)。

太平洋に向かって岩礁が伸びているのが解ります。

右の建物は「襟裳岬 風の館」

強風、濃霧そして岩礁のため、海の難所として知られ、岬には1929(昭和4)年4月22日に暗礁に乗り上げて座礁沈没した豊国丸殉難者追悼碑が建立されている。

突端にある襟裳神社跡。今はえりも岬地区市街地にあり、現在は木製の鳥居がのこされている。

豊似岳。

謎の石柱。後日調べてみたところ、国土地理院の管轄するいわゆる境界杭や三角点ではないようです。

襟裳岬の歌碑は二つあり、一つは島倉千代子の曲(1961年)のもので1971年に建立。

もう一つの歌碑は森進一の曲(1974年)のもので、1997年に建立されたものである。

2006年9月には天皇・皇后両陛下の行幸啓の際に建立された碑で、緑化事業での植林の苦労を偲び詠んた歌が刻まれている。

襟裳岬灯台(1)

襟裳岬灯台(2)

襟裳岬灯台(3)
襟裳岬灯台は標高73mにある灯台で、1889(明治22)年6月25日に北海道で7番目の灯台(鉄造)として点灯。第二次世界大戦中の1945(昭和20)年7月15日には爆撃で破壊され、1950(昭和25)年2月3日に現在の鉄筋コンクリート造に改築された。また2005(平成17)年4月1日からは無人灯台となった


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