江差町(えさしちょう)は、北海道檜山振興局中部にある日本海に面した町。檜山振興局の所在地。町名の由来はアイヌ語で岬を意味する地名エサシ (esasi) であり、宗谷総合振興局の枝幸町と同じ語源である。放送局の天気予報などでは当町を「道南の江差」、枝幸町を「北見枝幸」と呼んで区別することが多い。江差追分発祥地。 函館市、松前町と並び、北海道で最も早く開けた地域の一つ。江戸時代はニシンの漁場および北前船によるヒノキアスナロなどの交易港で、「江差の五月は江戸にもない」といわれるほど栄えた。松前藩の所領であるが、1868(明治元)年戊辰戦争において、旧幕府脱走軍の占領を受けた。その際、旧幕府海軍の主力艦である開陽丸が江差沖で座礁沈没した。廃藩置県後、一時期青森県に属していたが、1872(明治5)年に開拓使函館支庁に移管、町役人を廃し、戸長役場を置いた。1882(明治15)年、函館県に属し、1886(明治19)年の県廃止後に北海道庁に属し、1897(明治30)年檜山支庁が置かれた。 漁業不振や若年層の町外流出により人口は減少傾向にあり、1997(平成9)年には道内の支庁所在地として初めて過疎地域の指定を受けた。さらに支庁所在地ではただ一つ、道庁のある札幌市への直行交通機関がない。 人口は8,661人(住民基本台帳人口、2012年12月31日)。 |
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開陽丸青少年センター 開陽丸とは、徳川幕府の軍艦で、オランダで建造されて僅か1年7ヶ月後の1868(明治元)年11月15日に江差沖で座礁、沈没。このセンターでは沈没124年後の1990(平成2)年4月に実物大で再現。海中から引き上げられた大砲などの遺物を展示しています。 |
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この日は時間の関係で中を見学できませんでしたので、外にある展示物を見てきました。 |
1990(平成2)年4月に実物大で再現された開陽丸。正確には「船」ではなく、コンクリート製の「建物」です。 |
海中から引き上げられた開陽丸のスクリューシャフト |
海中から引き上げられた開陽丸の甲板 |
こちらは海中から引き上げられた開陽丸の大砲群。 |
12ポンドカノン砲(イギリス製?) |
16サンチクルップ砲(ドイツ製) |
9インチダルグレン砲(アメリカ製) |
案内板を確認できませんでしたが、どうやら海中から引き上げられた開陽丸の錨だと思われます。 |
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江差町郷土資料館(旧檜山爾志郡役所庁舎) - 北海道指定有形文化財(建造物) 檜山郡・爾志郡を管轄する郡役所として、1887(明治20)年に建設された建物。1992(平成4)年には、北海道に唯一現存する郡役所庁舎として、道指定有形文化財に指定された。 |
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この松は「土方歳三嘆きの松」と伝えられます。戊辰戦争の時に江差沖に碇泊していた軍艦「開陽丸」が暴風のために座礁・沈没し、それを見た土方はいたく嘆き、いまの「旧檜山爾志郡役所」前にある松をこぶしで叩きました。いま松の幹が曲がっている部分が瘤(こぶ)のようになっているのは、土方の叩いた跡だと伝えられています。 |
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旧中村家住宅(国指定重要文化財)(左の建物) 江戸時代から日本海沿岸の漁家を相手に、海産物の仲買商を営んでいた近江商人の大橋宇兵衛が建てたものです。1915(大正4)年、大橋家が江差を離れるにあたり、支配人の中村家が譲りうけました。旧中村家住宅は、主屋・文庫倉・下ノ倉・ハネダシの4棟からなり、各棟をトオリニワと称する通路で結んでいます。下ノ倉が江戸時代末、主屋と文庫倉が明治20年代の建築と考えられています。 |
横山家(道指定有形民俗文化財) 横山家初代は1786(天明6)年、現在地において漁業、商売、廻船問屋を営んでいました。現在の建物は今から約160年前に建てられた家屋で、母屋と四番倉にはニシン漁全盛期のころ使用されていた生活用具などが陳列され、当時の暮らしぶりを今に伝える貴重な建物のひとつです。 |
江差町役場 |
檜山振興局(旧・檜山支庁) |
江差町のカントリーサイン。 |