◆稚内市(北海道)◆

稚内市(わっかないし)は、北海道にある市。宗谷総合振興局所在地。日本国内の最北端に位置しており、宗谷地方の行政・経済の中心地、ロシアサハリン州をはじめとする北方圏への玄関口になっている。
氏名の由来は、アイヌ語の「ヤムワッカナイ(ラテン翻字: yam-wakka-nay)」〔冷たい・水(飲み水)の・川〕より。現在の港1丁目付近にあった小川が由来とされ、かつて水がよくない場所であり、良い水であったことからついた名と考えられる。人口34,395人 (住民基本台帳人口、2018年3月31日)
Wikipediaより)

2018年5月2日(水)、3日(木)撮影
ノシャップ(野寒布)岬(のしゃっぷみさき)
 岬の最北端には稚内灯台があり、晴れた海霧の立たない日には利尻島(利尻富士)、礼文島が望める。灯台の南西よりにある恵山泊漁港公園には「ノシャップ岬の碑」の他、「イルカのモニュメント」が設置されているが、これはイルカが宗谷海峡を通過したという昔話に基づいている。灯台・漁港公園に隣接して稚内市立ノシャップ寒流水族館、青少年科学館、みやげ物店などが居並ぶ。
 読み方が似ている納沙布岬(のさっぷみさき)は根室市にある北海道本島最東端の岬である。
Wikipediaより)

稚内灯台

稚内分屯基地
「陸」「海」「空」の3つの自衛隊が同じ敷地に所在する全国でも珍しい基地。

恵山泊漁港公園

イルカ像。

岬の記念碑。

ノシャップ岬より眺める利尻富士。この日は天気に恵まれませんでしたが、晴天で海霧が発生しないに日には隣の礼文島も望むことが出来ます。
宗谷岬
 日本の本土における最北端の地であり、私人(一般人)が通常訪れることのできる最北端の地になっている。なお、日本国政府の実効支配が及ぶ範囲における最北端の地は宗谷岬の沖合い西北西約1kmに位置している無人島の弁天島であり、領有権を主張する範囲における最北端の地は択捉島にあるカモイワッカ岬である。

 宗谷岬から樺太(サハリン島)までは約43kmの距離があり、晴れた日には島の姿を見ることができる。周辺を宗谷岬公園として整備しており、日本最北端の地碑はじめとする記念碑、祈念碑、慰霊碑などが点在している。後背地には宗谷丘陵が広がっており、周氷河地形を形成している。

 宗谷岬はアイヌ語で「ノテトゥ」(notetu)と呼ばれており、「ノ」(not)は顎・岬、「テトゥ(エトゥ)」(etu)は鼻・岬の意味がある。「宗谷」の語源はアイヌ語の「ソヤ(so-ya)」(岩・岸)である。由来は諸説あり、珊内(さんない)地区の海中にあったソウヤ岩という大岩からつけられた地名が、珊内にあった会所を宗谷に移した際に名前も一緒に移したとされているほか、宗谷岬沖の弁天島をアイヌ語で「ソヤスマ(ソヤシュマ)」と呼んでいたためともされている。
Wikipediaより)

宗谷丘陵

宗谷岬の西北西約1kmにある弁天島。日本の実効支配が及んでいる最北端の地。

日本最北端の地の碑

宗谷岬から樺太まで約43km離れていて、晴れた日には島を見ることが出来ますが、この日は悪天候のため見ることはかないませんでした。

宗谷岬灯台

間宮林蔵の立像

宗谷岬音楽碑

宗谷岬神社

宗谷岬より南西へ約1km離れた珊内地区にある間宮林蔵渡樺出航の地の碑。
大岬旧海軍望楼跡
 1875(明治8)年の樺太・千島交換条約により、宗谷周辺は国境となる。帝政ロシアが樺太に軍備を進めると、これに対応して1902(明治35)年に旧帝国海軍によって国境の防備として建造された。当時最強と謳われたバルチック艦隊の動きを早期に察知する必要性から、重要な海上監視の任務が課せられていた。

 日露戦争の終結とともに監視哨としての使命を終えた後は、1920(大正9)年沿海州で勃発した尼港事件の際には無線通信基地として機能した。

 1968(昭和43)年12月に稚内市の有形文化財に指定される。稚内市は数回にわたる大火で古い建造物を消失しており、大岬旧海軍望楼跡は、同市内で現存する唯一の明治時代の建築物。現在は観光施設として望楼上に上がることができ、サハリン方面がよく見渡せる。
Wikipediaより)

訪問する計画でしたが、移動の疲れと悪天候のせいか、うっかり忘れてすっ飛ばしてしまいました。次回訪問したいです
北防波堤ドーム
 稚内桟橋駅の防波堤として1938(昭和13)年に完成し、1945(昭和20)年まで北海道と樺太を結ぶ稚泊連絡船航路の乗換駅として使用されていました。

古代ローマ建築を思わせる円柱群とアーチ状のなだらかな曲線。

おまけ

日本最北端のマクドナルド。


TOP旅の記録各都市の建物(旅行記録)>稚内市(北海道)