◆姫路市(兵庫県)◆
(2010年2月17日(水)撮影)

姫路市は、近畿地方の西部、兵庫県南西部(播磨地方)に位置する市。県内第二位の商工業と人口を擁する都市であり、中核市に指定されている。観光事業では、国宝であり世界遺産でもある姫路城などが有名で、国内は勿論、海外からの観光客も多い。

奈良時代、播磨国の国府が置かれた。本町遺跡が国衙跡であると推定されている。
江戸時代には、「西国将軍」「姫路宰相」と呼ばれた池田輝政が城下町を形成し、姫路藩の城下町となった。現在の市街地にも城下町の町割りが残る。

明治維新における廃藩置県の時期には、飾磨県の県庁所在地となった。しかし、1876年8月に飾磨県が兵庫県に編入されて以降は、兵庫県に属している。人口は536,285人(2010年2月1日現在推定人口)。

(姫路城について)
姫路城は、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山に築かれた平山城である。日本における近世城郭の代表的な遺構である。

この歴史は中世に赤松氏が姫山に城を築いたことから始まる(異説もある)。戦国時代後期には羽柴秀吉が居城し、江戸時代には姫路藩の藩庁として最初は池田氏、のち本多氏や酒井氏などの譜代大名が入城した。現在の姫路城城郭は、関ヶ原の戦いの後、家康が豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する目的で改修させた城である。城主が幼少・病弱・無能では牽制任務を果たせないので、担当する大名が頻繁に交替している。藩主は親藩および譜代大名が務めたが、池田家の後は、本多家、奥平松平家、越前松平家、榊原家、再度越前松平家、再度本多家、再度榊原家、再々度越前松平家とめまぐるしく入れ替わる。1749年(寛延2年)上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。明治時代には陸軍の兵営地となり、歩兵第十連隊が駐屯していた。この際に多くの建物が取り壊されたが、大小天守群、櫓群が当時の陸軍省の働きかけによって名古屋城とともに国費によって保存される処置がとられ、太平洋戦争においては空襲に見舞われたものの、天守閣最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となるという幸運もあり奇跡的に焼失を免れた。



JR姫路駅の新幹線ホームから。すでに姫路城天守が見えます。

JR姫路駅。

駅から姫路城へ向かうとすぐに天守閣が見えます。

二の丸から天守を望む。

チケット売り場からの眺め。

通称「将軍坂」。なんでも、某「暴れん坊将軍」で何回か撮影がここで行われたことから名付けられたそうです。ちなみに、姫路城は大名の城なので、将軍はいませんでした、当然か。

「将軍坂」。

「に」の門あたりから。一番奥が大天守・手前右が西小天守・左が乾小天守・一番手前が「ニ」の隅櫓。

姫路城天守閣。言葉を失うとはまさにこのこと、説明は不要ですね。

天守閣内部。何とも急な階段。

天守からの眺め(1)
姫路市街を眺める。

天守からの眺め(2)
鯱。

お菊井。

「新歌舞伎」の代表作の1つで、1916(大正5)に岡本綺堂によって作られた「番町皿屋敷」のもとになった「播州皿屋敷」で有名なお菊井。「番町皿屋敷」では、当時の城主、小寺則職の家老であった青山鉄山がお家のっとりを企てているのを女中であるお菊が知り、城主の難を救ったが家老はそれをうらみ、家宝の皿を一枚隠してお菊を責め殺し、この井戸に投げ込んだという。死んだお菊の無念は井戸に残り、それからというもの夜ごと幽霊となっては現れ、皿を一枚から九枚まで数えては「一枚足りない・・・」と言ってすすり泣くようになったという。


おまけ。姫路から大阪へ向かう電車で淡路島と本州に架かる明石海峡大橋。

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