◆盛岡市(岩手県)◆
旧陸軍騎兵第3旅団第23連隊司令部跡

騎兵第3旅団(第23・第24騎兵連隊)

騎兵第3旅団は1909(明治42)年に、弘前の陸軍第8師団から分離編成された。第8・第23・第24騎兵連隊から成り、第8騎兵連隊は弘前、第23・第24騎兵連隊及び旅団司令部は盛岡に駐屯した。盛岡の青山地区へは1908(明治41)年、工兵第8大隊が弘前から転営し、軍駐留の地としての歴史が始まった。盛岡市民の誘致運動が実って同大隊が転営し、第23、24連隊が駐屯したほか観武ケ原練兵場、一本木原演習場が設置された。

遺構としては、数年前までは正門と兵舎(1910年築、2008年撤去)と覆馬場(1909年築、2008年撤去)が残っていたが、現在では正門と市所有の覆馬場1棟を残すのみである。

旧陸軍騎兵第3旅団第23連隊司令部営門(1)

旧陸軍騎兵第3旅団第23連隊司令部営門(2)

旧覆馬場(1)
第3旅団で現存する唯一の建物

旧覆馬場(2)

旧覆馬場(3)

旧覆馬場(4)

旧覆馬場(5)

旧覆馬場(6)
(参考)

(騎兵第3旅団略歴)
1909(明治42)年9月、騎兵第23連隊、同24連隊に対し軍旗親授される。両連隊により騎兵第3旅団創設。衛戍地、岩手県盛岡。
1928(昭和3)年10月、岩手平野で行われた特別大演習に北軍主力として参加。
1930(昭和10)年9月、満州派遣。第4師団隷下。旅団司令部と騎兵第23連隊は、三江省佳木斯(チャムス)に駐屯。同24連隊は、富錦(ふうきん)に駐屯。以後、昭和16年まで富錦県、宝清県において匪賊討伐、治安維持にあたる。
1939(昭和14)年5月、ノモンハン事変発生。同年9月、騎兵第3旅団は第5軍直轄となり、騎兵第23連隊は事変に参画すべく宝清駐屯地から興安北省に出発。同24連隊は、東安省密山県平陽鎮に移駐。しかし、同月25日、戦闘参加前に停戦協定成立。
1940(昭和15)年11月、騎兵第24連隊は平陽鎮から宝清に移駐となり、渡満以来初めて騎兵第3旅団の両主力連隊が集結した。
1941(昭和16)年7月、独ソ戦に呼応した関東軍特別大演習(関特演)による動員。騎兵第3旅団においては、戦時編成による増員、旅団輜重隊・衛生隊が新設された。集結した旅団は、沿海州饒河正面のソ連軍に対して無言の威圧となっていた。
1941(昭和16)年12月、大東亜戦争勃発。関東軍は、対ソ戦発生防止のため「静謐確保」が至上命令となる。
1942(昭和17)年6月、満州東部国境の各軍は第1方面軍に統括され、山下奉文中将が司令官として着任。第1方面軍の対ソ戦構想によれば、騎兵第3旅団所属の第5軍は、興凱湖北イマンを突破しマンゾフカに進出する予定であった。同年9月対ソ戦を想定した特別演習に参加。同旅団にとって、これが満州での最初で最後の特別演習となった。
1943(昭和18)年後半から南方戦線の悪化に伴い、関東軍からの余儀ない兵力抽出が行われる。
1945(昭和20)年1月、騎兵第3旅団は新設の独立混成第77旅団に改編(第1次)となり、騎兵第23連隊は独立歩兵第568大隊、同24連隊は同569大隊に改編される。旅団の馬匹は抽出され実質的に歩兵化となる。同年7月、独立混成第77旅団は旅団名を残すが、実質的に新設第135師団に改編(第2次)され、歩兵第368連隊第1大隊(旧騎23連隊)、同第2大隊(旧騎24連隊)に改編となる。
1945(昭和20)年8月9日、ソ連軍満州侵攻。歩兵第368連隊第1大隊(旧騎23連隊)は虎林を中心に布陣、同第2大隊(旧騎24連隊)は宝清を中心に布陣していた。ソ連軍の猛攻を支えきれず前哨陣地は玉砕、後退を余儀なくされる。第1大隊主力は、同月25日林口で軍旗奉焼。第2大隊主力は、9月1日道林付近で軍旗奉焼。残留隊となった渡隊(旧騎24連隊)、竹川隊(旧騎24連隊)等は、同年10月末までゲリラ的に戦闘を続け朝鮮国境への脱出を試みた。白頭山中心の鮮満国境には、友軍が永久徹底抗戦の目的で防御線を敷いているであろうという確信からであった。竹川隊は、10月22日、白頭山付近に到着したが共産軍により大きな損害を受けた。10月28日、高橋見習士官以下44名は、豆満江を越え恵山鎮にたどり着き、現地保安隊により武装解除された。500キロの道のりを踏破しての脱出行であった。

参照 騎兵第3旅団の栄光と終末 白ゆり印刷出版部


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